私は二十五歳である。内定はまだ無い。そもそも面接も受けていないのだが、受けていないなりに色々と考えてみたつもりだ。ここでは面接という営為について——人は他者といかにして会話を通じて関係を築くか、またいかなる基準によって評価を下し得るのか——思うことを記してみたい。一応は就職面接を念頭においているが、多分どんどん関係ない話になっていくだろう。
G・K・チェスタトンの短篇推理小説に次のようなものがある(「ムーン・クレサントの奇跡」、『ブラウン神父の不信』所収)。様々な事業を見事に成功させた活力に満ちたビジネスマンがいる。彼は会った相手の本質を瞬時に見抜くことで知られており、彼の前に一見似たような三人の浮浪者が現れたときにもためらうことなく一人を精神病院に、一人をアル中患者の収容所へと送り、最後の一人はなんと高給で秘書として雇い入れて自らの下で働かせることにしたという逸話がある。そんな彼がある日、変死体となって見つかる。彼を恨んでいたのは誰だろうか。
精神病院に放り込まれた男、アル中扱いされた男——彼らのどちらにも明確な動機があるように思われる。そして実際、この殺人は彼ら二人の共犯である。しかし秘書の男もまた共犯者の一人である。この三人目の犯人についてはいささか意外とも思える。似たような男たちよりも優れた資質があるとみなされ、異例とも言える大抜擢をされた以上、感謝こそすれ怨みを抱く理由などないのでは?
探偵役であるブラウン神父はこの事件について次のように説明する。誰であろうと人を裁く権利などないのではないか。やり手実業家は三人を一目見た瞬間、体裁をつくろうことさえ考えず、彼らが自らの意志に基づいて交友を深めていく余地など残さずに、ただ自らの判断した「適性」に従って瞬時に彼らを各所に振り分けた。これは極めて傲慢なことであり、裏返せば元浮浪者たちにすればとてつもない侮辱と受けとめられたのだ。
推理小説である以上、本作においてはトリックなども重要になってはくるのだが、ここではそれらについては触れずにおく。この犯行動機とそれに対する神父の分析とが示しているのは次のことだ——すなわち、人は誰しも、自らに相応しいか相応しくないか結局のところは分からないような行為を、偶然的な諸条件に制約されながら選び取る。しかし自らの適性も天職も知る術がないという事実は決して呪いではない。むしろこのことこそが、誰もが明確な根拠などない一々の選択をめぐって後悔や納得を積み重ねながらなお新たな選択を繰り返し続けなければならない事実こそが、それ自体で生の、また自由の、意味を構成している。そんな生を個々に営む他者と関係を構築するにあたって、自らが抱き得る意見もまた絶対的な正確さや価値を有するものではあり得ないと自覚することは、最低限の礼節に違いない。他者は分からないから他者であり、生は正解がないから生であり、今は一度きりだから今なのだ。
例えば五分も話せば大体相手のことが分かるなどと称する連中がいるが、もちろんこれは誤りである。人は第一印象で相手についてかなりの量の判断を下す、というのは事実のようなので(行動経済学の実験が示している)、こうした勘違いが生じるのは単に、そうした主張をする者が最初の判断に合致する点のみを選択的に認知し、そのことによってこの判断を事後的に正当化していることに無自覚でいるからだろう。私自身も生物学的所与としての認知バイアスを免れてなどいないとはいえ、これを免れているなどと自称するほど驕ってはいないつもりだ。ブラウン神父は作品の終わりで、しかしこうした殺人者たちのためにも祈ってやるのがあなたの務めなのですね、と言われ、ええ、この実業家のような男のためにも祈ってやるのが私の仕事なのです、と応じる。私は神父ではないので、こんな連中のために祈ってやるつもりなどさらさらない。