火乃絵は『偏向』の発起人にして責任編集者であるけれども、あくまでいち書き手であってここではそういう立場から自分にとってのこの場所について書いていこうとおもう。
とはいえ、発起人としてもまず、どうしてこの同人雑誌を起こすにいたったか、かんたんに記しておく。それはここの書き手としてのひのえの在り方ときってはきれないものだから、
ようするに、火乃絵の原稿をありのままに受け容れてくれる雑誌がなかった。〝ないんだったら自分で作ればいいのよ!〟(涼宮ハルヒ)―それだけだった。
そして、そういう人がほかにいるんだったら参加できる雑誌を、
―だいたい起点はそんなところだ。
たれでも参加できる、それはいまもこれからも変わらぬ『偏向』の条件だ。ここにはまだ編集の観点ははいって来ない。
こういう考えがある。『偏向』がいたるところにあればいい。ここに多くを集めるのでなく、すぴりっとをまん延させ、あちこちで『偏向』よりすぐれた雑誌がつくられる。そしてただ無限に局所が発生するだけでなく、それらの交通のある広場をつくる。『偏向』はそこでひらかれるふりい・まーけっとのいちブース、影のうすい主催というのが適切だろう。―
すぴりっとを拡めるのはかんたんだ、それがあること、そしてたれにも真似でき、自分(たち)ならもっと上手くやれるとおもわせること。そこに噓がないということ、なにより、その営みが長きにわたり、不恰好であってもとにかく持続せらるること。この4つがそろえばけっこうだといえる。
『偏向』(わたしたち)はその名のとおり、平行線でひとびとの交わらない街の交通に、無限小のズレをひきおこすだけだ。そのあとの衝突のかずかずを牽っぱったり、統御するのはその与りしらぬところである。責任はひとえにこの雑誌の存続をもって果たされる。―
さて火乃絵の編集方針はたんじゅんだ、青春。それだけだ、あるいみ、学園としての雰囲気、どこまでもつづくような放課後の自由。—
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ここからはそこに参加する書き手として、
自己研鑽。切磋琢磨。
より開かれた文体へ、広場の思想へ、なるたけ遠回りをして。―
すべては文化祭へと向かう、青春の日々としての祭りの準備。