『(ANIMA(あにま))TION(しおん)』/『バーチャルの果て』/『DigItal-AnaLog(ue)』

白石火乃絵

三著の展望

                     二〇二一年卯月廿六日

『DigItal-AnaLog(ue)』は、『言語にとって美とはなにか』

『バーチャルの果て』は、『共同幻想論』

『(ANIMA(あにま))TION(しおん)』は、『心的現象論』(『序説』+『本論』)

と、『偏向』においてなされる火乃絵のらいふわーくは、吉本隆明の思想の三主著にそれぞれ対応している、あるいはその書き変えを企図するものである。


とはいえ、吉本隆明と火乃絵の資質のちがいにより、結果てきにまるでちがった様相を呈するにちがいない、が、てんで繋がりがないという風にはならない。あきらかに吉本隆明のそれらの著作は〝精神のリレー〟(埴谷雄高)を待ちのぞんでいるのであって、そのことを感受した以上、いかに資質を異にするからといって、火乃絵がその孤独のシグナルを見てみぬふりをしてよいという理由にはならない。


火乃絵はそのからだのつくりからして、論理的思考や体系的思考をニガテとしている。埴谷雄高の『不合理ゆえに吾信ず』に〝ひとはかつて五分間と論理的に思考し得たことはないであろう〟とあるが、火乃絵においては一分もてばいい方だ、むしろいかなる体系もそれ以上の還元をゆるさぬ原理も崩れ去らざるを得ない風孔や沼地のようなものこそ火乃絵の個体性といってよく、この欠落があるばあいにおいては長所ともなりうるところに火乃絵の生存はゆるされている。あるばあい、というのはすなはち21世紀のことである。

            *


『DigItal-AnaLog(ue)』はたんてきに『言語にとって美とはなにか』(以下『言美』)に文字や書き言葉の視点を導入したものといっていい。声コトバとしての幼年期をもつ日本語において吉本隆明が「指示表出/自己表出」という原理を導き出したのは、まことに正しく想われる。〝表出〟とは(それが指示に向こうが表現に向こうが、)発声すなはち喉のふるえにほかならない。『言美』において文字は〝表出〟に影響をおよぼすにすぎず、あくまで眼目は〝表出〟にある。声コトバとしての日本語にあるのだ。Cf.『初期歌謡論』。

しかし、表現としての日本語を扱う以上、文字を避けては通れない。声コトバをきほんとする言語の文化にとり、文字という文明の利器は、保存とひきかえに、多くのものを失わせる受難をもたらす。その受難は、幼児期から少年少女期にうつる過程で、読み書きを教わるとき、わたしたちの実人生において再現される。そのことにいまなお悩まされている火乃絵はみづから『言美』の不足を補わなくてはならない。

            *

『バーチャルの果て』は『共同幻想論』(以下『共幻』)における〝幻想〟から、〝仮想(バーチャル)〟への橋渡し、転換、原理的書き変えである。「自己幻想/対幻想/共同幻想」のうちとくに「対幻想」にかんしては『(ANIMA(あにま))TION(しおん)』においてより根源的な見直しが図られる。『心的現象論』(以下『心現』)における「原生的疎外/純粋疎外」はむしろ『バーチャルの果て』に深くかかわるというように、ここでは『共幻』と『心現』の原理交換がなされる。というよりも、『バーチャルの果て』は『(ANIMA(あにま))TION(しおん)』を通過することによって〝幻想〟から〝仮想(バーチャル)〟へ転生を果たし、そこから「自己幻想」そして「共同幻想」へと降下する。―

            *

 火乃絵の三著は、ある意味では吉本隆明の思想の三主著の読解でもある。

三著の副題


『(ANIMA(あにま))TION(しおん)』―心的活動論

『バーチャルの果て』―風の唯物論

『DigItal-AnaLog(ue)』―言葉にとって美とはなにか


三著はいかにして書かれるか

弥生―Ⅴirtual―五日


朔太郎の『詩の原理』や吉本さんの思想の三主著は、一面において、情況にたいして書かれたものであることを忘れてはならない。


原理にたいして思想ということがある。吉本さんの思想のというときの思想と、ここで火乃絵のいおうとしている思想はおなじではない。埴谷雄高にとっての〝虚体〟のようにそれは表現をとおしてしかあらわしえない、―


原理がなくては生きてゆけないのは、ユダヤ的である。吉本さんの思想の、というときのそれはユダヤ的なるものを示している。それは世界を解き明かすことをとくいとする。それにたいし、火乃絵のいわんとするところのものはユダヤ人イエスによる原理革命としての思想―火乃絵は自らひとりのユダヤ人であることによってなおも自らを革命する。吉本さんの思想の三主著を旧約書とすれば、火乃絵の三著は福音書にあたる。それらは地続きである。イエスが肉体において仕事をしたように、まったく別の書き方がなされなくてはならない。―革命とはすなはち自己批判である。


この三著(のちにもう一冊)は、世界への贈り物であると同時に、

火乃絵の十字架である。つまりこの宇宙への捧げ物である。―


三著の性質

                     二〇二一年卯月廿七日

『(ANIMA(あにま))TION(しおん)』は、草花にとり囲まれて睡むる一匹の獣のみる夢。

『DigItal-AnaLog(ue)』は、病弱な少年と少女たちのあの夏の草編みの日時計。

『バーチャルの果て』は、その野原に吹く、髮かきあげる、風の痕。

―十五歳から十六歳の火乃絵の原風景であり、満十六歳の文化祭の前史。


三著序

弥生―Ⅴirtual―五日


すでに構想としてはあったこの三著が、吉本隆明さんの思想の三主著『心的現象論』『共同幻想論』『言語にとって美とはなにか』との対応関係にあると気づいたのは後になってからのことだ。そこからいまだ後継ぎをみない先人の仕事を引き継ぎたいとおもいはじめた、というより、詩人と理論家としての資質を兼ねそなえた吉本さんの仕事を火乃絵の思想にぶつけてみると、それが失われていた歯車(ギア)であったかのように、三著が起動するのである。


ただし、火乃絵の三著が吉本さんのものとけっていてきに異なるのは、「なにかを解き明かすために書く」のではなく、「すでに火乃絵のうちにある言葉にできぬ思想を表現するために書く」ということだ。


おなじ理論書であっても、火乃絵のは実践理論であって、これをあえてやってみようと思わない読者には、読んだところで縁のない書物となろう。関心は関心に座礁する、貪り食らうようによみ、ただちに行為にうつすのでなければ、これら書物はインクの固着した紙束にすぎない。題名に引っかからなければ、読まなくてよい。それくらいこの三著においては、題名がものをいう。―思想の本体である。


詩人ならばこれらを詩論として、小説書きならば文章読本のたぐい、哲学する人であれば実存書、アーティストであれば表現論、言語学者であれば言語説、伝記作者ならば自伝、宗教学者ならば倫理学、活動家ならば革命理論、教師であれば教育論、医者ならば心理学、生理学、科学者であれば自然科学、そのどれでもなければエッセイ、処世術、ハウツー本、まことにひとはここにみづから読みたいものを読む。願わくば、これら火乃絵の営みが、すべてのひとびとにとり夢のパンとならんことを。―

弥生―Ⅴirtual―五日

サンオウ和の間より、

                                 白石火乃絵