フィールドワークとして生きる

村上 陸人

 人間的なものと非間的なものだとか、生物的なものと非生物的なものだとか、有機物と無機物だとかについて話すのはあまり得意じゃない。違いについて話していると どんどん、人間の本質みたいな話になってしまう。本質 なんてどこにもなくて、たまたま今の環境だとか 状況だとかが今の人間像を作っているんだと思う。自然なものと自然じゃないものの違いを話すことも苦手だ。全部自然だからだ。自然じゃないものは、今の私に不自然に見えているだけで、不自然な自然なんだと思う。人間と自然の境界なんてものもなくて、人為的なものも自然なんだと思う。

 だから、人工知能に関しても人工と人工じゃないものっていう切り口では考えがまとまらない。一旦「人工」を取り払って、「知能」について考えた。

 知の体系なんてあるんだろうか。手に取れるモノのように、まとまりのある知なんてあるんだろうか。ないと思う。もっと文脈に張り付いたものだと思う。身の回りで何かが起きた時に、それに反応する力のようなものな気がする。

 このことを頭ではなく身体で感じるようになったのは、バングラデシュで半年ほど生活していたときかもしれない。当時の日記を読み返す。


<交通について - organised chaos>

日本とバングラでは道路における秩序の保ちかたが異なっている。

一見すると、日本には秩序があり、バングラは無秩序であるように見える。確かにそれもある程度正しいが、バングラの道路が完全な無秩序であるわけではない。もし完全な無秩序なのだとしたら、ひっきりなしに事故が起きているだろうから。

クラクションの使い方を見ると、バングラ式の秩序の作り方が少しわかる。バングラでは、とにかく頻繁にクラクションを鳴らす。すれ違うとき、追い越すとき、スピードを上げたいとき、などなど。そして、本当に危険なときには、クラクションを鳴らす長さが長くなり、車の窓が開き、運転手たちが叫びあう。普段使いのクラクションは、自分の存在を周囲に知らしめるために用いられる。これにより、周囲の車はその車を音でもって認識する。目視だけでなく音でも認識しあうことで、あれだけ込み合った道路でも走ることができる。

日本では、このような普段使いのクラクションは使われない。不要にクラクションを使うことはマナー違反とされており、迷惑がられる。日本では、道路において互いを認識する方法は主に目視である。ライトがよく使われる。目視にのみたよる日本式でバングラの道路を運転しようとしたら、事故を起こしてしまうだろう。周囲の車は日本式のもの静かな車のことを十分に認識してくれない。情報の伝達不足がおきてしまう。


 バングラディッシュで運転するのは難しい。それは私がまだ彼らと知を共有できていないからだと思う。その知は文脈依存的で身体的だ。

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