あだ名に、もどって

原 凌

 三月の中ごろ、しごとなかまとのつきあいで、劇をみた。その演劇のなかの、ひとつのせりふが記憶に残っている。ⅠT企業の、大きな工場の仕事をやめた、青年のせりふ。大量生産をしつづける大きくて無機質な機械を、あだ名で、こう呼んでいた。

 「熱帯雨林隊長」

 「大量消費社会」とか「機械による人間の非人間的な仕事」とか、また大学の学術書的な話題か、と思って、少し飽きはじめていたところに、思いもよらぬわくわくが、むくっと身をもたげた。大きな機械が櫛比するような、企業の大工場の風景もサムザムしいけど、それを批判するたぐいの、チテキの文章も、変わらずにさむい。「資本主義が」とか「大量消費が」とか「機械が」ばかりではじまる文を、読まなあかんこと、それ、すでにろうどうやない。

 がきのころは、感覚的にあかんもん、どこかこわばってるひと、言葉にならないけど、どこかいびつな人、そして彼らの言葉、こうしたものすべて、笑い飛ばしてましたわ。あだ名によって、物真似によって、毒ぬきしてましたな、ほんまに。

 これは人に限った話やない、物やって、なんやって、「熱帯雨林隊長」にすればええいうこと。心ひとつで。周りのものすべてに、名を与えよう。心に感じたまま、名、つけましょか。それだけで、世界の見え方、変わってくるよ。この経験、ひょっとすると底見えんくらい、深いものやないか。

 好きな名前はそのままでええ。「印刷機」とか「会議室」とか、名前耳にしたただけで、心にカビ生えてきそうな言葉、そんなんはとりあえず、口にしない。印刷機やって、そいつと長く付き合えば、物語いうか、そいつの性癖みたいなものを垣間見できますよ。そこから、名付けませんと。そこからはじまる、リズムにあわせて、ずん、ちゃ。

 職場(これを書いたとたん、いやな感覚君が侵入!これもあだ名をつける必要ある)の嫌いなもの、所も、名が変われば、親しみを抱けます。友達をあだ名でよびたくなる感覚よ。会議室は「和歌朗詠室」、大量印刷機は「パリジェンヌ」。パリジェンヌは、製本までしてくれる美女やけど、大切な時に限って不調、仕事できなくなります。裏切者いうこと。パリジェンヌ、あいも変わらず、故障しがちで不機嫌やけど、あだ名つけてから、こわれること、減りましたな。あかん、こわれたいうときも「パリジェンヌ、あきませんやろ」言って、いじくりはってたら、はやく機嫌直してくれはるようになりました。ほんま、気持ち次第いうこと。

 仮説。うちらの不機嫌いうもの、キカイはんに、伝わってるんちゃいますか。

 もしも、あだ名一つで、嫌いな奴も、不愉快なものも、ちょっとずつ、その臭みぬける、そんなら、世の中変わって来るいうのと同じやありませんか。世の見え方、言葉一つで変わる、それ、呪文やない。

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