書字方向について、日本語だけでなく、世界の言語も視野にいれたうえで書いてみようと思ったが、本4月号には間に合わなかったため、現在時点で考えにあることを執筆メモというかたちで公開する。議論がおこるべき問題であるとおもうが、わが日本語では、縦横についてそれぞれ、『縦に書け!』石川九楊、『横書き登場』屋名池誠の二冊しか一般に手に入る書籍がない。約千五百年以上にわたって縦に書いてきた民族の文章が横書きになるというのは天変地異に等しい事件とおもうが、この沈黙はそれ以上の奇蹟だろう。──
わたし自身、まったく答えの出ていない問いが多い。「偏向」上で、とりあえずは議論の場をつくろうとおもうので、以下の考察断片に異議や、新しい考察などあればhenkou65@gmail.comに送ってほしい。次号以降に整理して原稿化する。あまりに文献が足りていない。
(次号、わたしは意識的な横書きによる小説、短歌、詩、翻訳、日記等表現の考察をする。)
○現状、日本人はタテヨコを使いこなしている。
○街やインターネットをみてもわかるが、横書きが99%以上を占めている(実感)。
○縦書きは、書籍、台本、国語の教科書、など。(漫画が縦書きなのに注目)。
○台本など、声に出してよむものだと、横書きは絶望的に不便。
○そのわけは、ひらがなにある。(漢字の中国語、漢字+ハングルの韓国はすでに横書きが主流となっている)。
○平安期に生まれたひらがなは筆書きで紙になでるよう、つなげて書く。そもそも、漢字からの借字をつなげて書くところからひらがなのフォルムが生まれている。横書きにすると、字の形態状、音がつながっていかないことになる。
○しかし、活字化の時点で、ひらがなを繋げることはなくなっているので、横書きによる読みにくさは程度問題であって、ある程度はわたしたちのなかで補完されている。長文になったとき、読みにくさは感じ取れるだろう。実際に読んでみると、かなりのストレスがかかる。
○また、音のつらなりのため、音数律(五七五)伝統詩形である短歌俳句などは縦書きが根強くのこる(岡井隆に横書き短歌の試みがある)。詩は、それに比し、定型をもたないので、横書きへの移行は起こりやすい(最果タヒさん)。
○小説は、十年前に黒田夏子さんの横書き小説『abさんご』が芥川賞をとったので話題になった。が、長文の読みづらさから、黒田さんのような横書きを活かした表現作品をのぞいて、移行はあまり起きない。ただし、携帯小説、なろう小説など、インターネット上のものは、青空文庫も含め横書きである。それらは、縦書きに対応したブラウザが現時点で整備されてないことによるところが大きく、出版時にはほとんど縦書きになる。
○漫画の向きについては、さらに容易に移行が起こり得る。
○わたしはどちらがよいとか言うのではない。ただ、言語はわたしたちの根幹にかかわるので、縦書きが横書きに変わったことについて、あまりに言及された形跡がないことから、そのことは問題として提起したい。
○しかし、問題として提起されていないのは、げんに使いこなせているということが大きい。
○そもそも、他の言語とおなじく日本語は文字をもたなかった。縦書きなのは、隣国中国の漢字が縦書きであったからに過ぎない。
○見習っている文明国が戦後にアメリカとなった以上、横書きが主流になるのは、日本語とその話者の性質上、不自然なことではない。長きに亘る大陸中華文化の影響を脱しつつあるともいえる。良い悪いの話ではない。
○そもそも文字は、抑圧的である。というのも、もとは上から下される法であったからだ。縦書きが横書きになっただけ、読みにくくはなっても、それによって言語がやわらかくなったともいえる。街や駅の標識や、商品の記載などが、すべて縦書きになったと想像すれば、横書きのありがたさにも気づく、読もうとしなければ、さほど主張してこない一面において。
○また、他言語と並べて書くときの便宜もある。言語落差をなくし、他国他文化への歩み寄りでもある。
○この他者にあわせるやわらかさの言語能力は、日本語の美点であり、縦書きであることよりも、本質的である。
○ただし、わたしたちは多く横文字で思考しない。思考の言語は母語である日本語の体系に属している。
○そこで、横書きの氾濫は、思考力の低下を招くかもしれない。とくに自ら考えるという意味での。
○もし、論理的に考えたいなら、英語などの方がすぐれている。日本語の思考は、かりに英語などの思考法を論理的とするなら、非論理的である。だが、これは欧米を普遍の基準とする見方である。
○文章は思考力を助けている。〝ひとはかつて五分間と論理的に思考し得たことはないであろう〟(『不合理ゆえに吾信ず』埴谷雄高)。
○だが、それも一面的であり、無文字社会に暮らす人が、思考力がないとするのも、欧米植民地てきな見方である。(cf.ヘーゲル)。
○ここからさきは個人の選択にゆだねられる。
○もし、日本語の固有性を活かしたいならば、縦書きに触れておいたほうがいい。
○極論として、そのようなものがまったくいらないなら、母語や教育の時点から欧米語をつかえばいい。文化の放棄。じっさいに東南アジアなどではそうなっている(破壊か選択かにより)。
○筆者としては、両利きに越したことはないと考える。ほとんど現状肯定。
○そもそも、手書きをする機会がなくなり、始めから印字体となるワープロ入力であれば、横書きによって、文字が形崩れすることもない。
○手書きをしなくなる、という言語段階。(じつは横書き氾濫よりも、こちらの方がおそろしい)。
○書について。(『ひらがなの美学』石川九楊『書 文字 アジア』石川・吉本隆明共著etc.)
○ゲシュタルト崩壊について。(『言葉からの触手』吉本隆明etc.)
○かたや、横書きによる短形化は、悪くない。文字は少ない方がいい。
○だが、すくなくとも精神のある部分は確実に失われる。─
○縦横の普遍性についての考察。
○縦書きが失われるのは、言語と自然の分離が完成するときである。発生の見地から。─
○記号化。日本語に本来あてはまらないソシュールの文字論がいつか当て嵌るようになる。
○書き言葉からアナログ感覚が失われるということ。(極限てきにはやがて話し言葉も?)
○話し言葉と書き言葉の完全分離の段階。書き言葉は、プログラミング言語でよくなる。あとは記号と図と映像が補う(それもプログラミングで表示できる)。
○論理的言語は、AIでカバーできる。どこかで全自動化の段階が来る。人間は、画面の表示にタッチして取捨選択するのみで、書くという作業はいらなくなる。
○横書きだけになると縦書きで書かれた古典が失われる(とくに長い物語文学は横書きで通読困難)。精神文化の連続性がなくなる(横書きではすでに古典精神が損壊している)。
○ただし、どちらが先かわからない。精神か書字方向か。少なくとも影響関係にはある。
○縦書きへの飢えは多かれ少なかれ出てくる。もしなければ、民族文学は失われたということだ。
○しかし、カフカが選んでドイツ語で書いたように、普遍文学としてはまったく問題がない。
○仮に100%横書きになった未来を考える。しかし、当分は先である。ほとんど紙媒体の消滅と同時であるはずだ。だが、現在流通しているもの、電子版など考えれば、専制政治がおこり、始皇帝のような世界史的な王があらわれないかぎり、ほとんど人類史の終わりまでは残るであろう(日本語話者の消滅後も、海外の研究者の手により歴史的遺物として)。
○いかに慣れるとはいえ、文字形態上、横書きの読みにくさは必ずつきまとう。とくにひらがな。横書き用に対応したフォント(実質不可能、新たなかなの生成は有得なくない?)
○ただ、インターネットにおいて、縦書きに対応してないという理由だけで流される必要はない。縦書きプラットフォームがあったうえで、どちらかを選ぶというのが、望ましい。よって「偏向」は縦書きWebの開発を進める。