原風景

原凌

 小学生の頃から、本を読むことが好きだった。小さい頃は、デュマの『モンテ・クリスト伯』とかユゴーの『レ・ミゼラブル』とか、ヴェルヌの『十五少年漂流記』が大好きだった。『ハリー・ポッター』はもちろんすべて読んで映画も見たし、『スターウォーズ』も好きだった。

ミステリーものも大好きで、特に『ルパン』と『怪人二十面相』はむさぼるように読んでいた。とにかく、外で遊ぶことと同じくらいには本が好きだったのだが、中学二年生くらいから、自分の好きという気持ちを、偽り始めてしまったように思う。小学校の、それも低学年の頃に自分が好きだったものを、娯楽にすぎない、とどこかで否定しはじめ、学校の授業で学んでいた日本近現代の純文学こそ高尚で、理解すべきものであるかのように、自分で言い聞かせはじめた。それに、当時はまだ人生の経験などというものも乏しかったから、純文学など必要でもなかったし、そうした自分にとって、中高の授業で扱うような「純文学」は面白いとは程遠いところに位置していた。自分で、自分自身から、遠ざかってしまった。

 それでも、心に嘘はつけまい。十代の前半までに好きだったものは、何歳になっても、自分にとって強い力をもっている。そうした純文学以前の、児童文学を含む読書体験や、映画や遊戯の体験をもう一度、自分の中で肯定しはじめたのは、二十代になってからである。きっかけは、友人と小林秀雄なのであるが、いくつか、すぐに思い出せる経験がある。

 ひとつは、ジブリの『千と千尋の神隠し』である。金曜ロードショーで再放送されていたときに見たのだが、見るや否や、6歳のころに、自分が感じていた何かに触れたような感覚を覚えた。海の線路、海を渡る列車。その車窓にうつる、海、海、海。海に浮かぶ駅舎。海と電車(しかも路面電車の懐かしさあふれる車内)と、その組み合わせが、ぼくにとってのひとつ原風景であったことを、二十も過ぎて、久しぶりに思い出していた。なぜこの風景が、自分にとって力強いエネルギーを心に巻き起こすのか、分からない。分からないからこそ、面白い。

 そして、広島やら松山やら長崎やらの街に心惹かれたのも、どうやらこの路面電車ということと関係がありそうだ。それに湖西線、琵琶湖の西を走る列車に乗ったときに感じた歓びも、ここに通じているように思えてならない。

 もうひとつ、『ハリー・ポッター』を見直していて、心震わされたモチフ。それは、スネイプがずっと隠していた記憶を、ハリーに託した後のことだ。ハリーはその記憶をたどるために、魔法学校の特別な部屋に行き、特別な井戸に、スネイプからとった涙を落とす。その涙が、波紋のように広がっていき、記憶の世界を彷徨さまよう。死の間際、涙に、記憶を託す。

 ファンタジーの、その魔法のなかで、涙というものが持ちうる味わいが、生き生きと蘇っている。

 遊びにかえる。それがこれからの実践。

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