自伝的作品『アンリ·ブリュラールの生涯』において、作者であるスタンダールはくりかえし、回想という営み、そしてそれを言葉にすることそれに内在する困難に言及している。スタンダールは本書において、例えば次のような幸福な思い出に触れている。
ロールでだったと思うが、早くに到着し、『新エロイーズ』を読んだことからくる幸福感、そして今からヴヴェイを過ぎるのだという考え──おそらくはロールをヴヴェイと取り違えていたのだ──に酔いしれていたとき、私は突然、ロールかニヨンから1キロほど上ったところの丘にある教会の荘重な鐘が、大きな音で鳴り響くのを耳にした。私はその丘に登ってみた。私はあの美しい湖が眼下に広がるのを目にした、そして鐘の音は魅惑的な音楽として私の思いに伴奏し、これに崇高な形象を与えた。
そこでこそ私は「完璧な幸福」に最も近いところまで接近していたように思われるのだ。
「『完璧な幸福』に最も近いところまで接近していた」瞬間の思い出という割には、その場所さえも、ヴェヴェイだかロールだかニヨンだかその近くだか、随分はっきりしない話ではある。スタンダールは続けて、こうした幸福な思い出について語ることの困難に言及する。
[この書物の]続きで私は、似たような瞬間の数々について語るだろうが、そこではおそらく、幸福の基盤はより実体的なものだろう。しかし感覚そのものは同じくらいいきいきとしたものだっただろうか? 幸福による恍惚感は同じくらい完全なものだったろうか?
こうした瞬間について、誤ったことを述べてしまうこともなく、作り事に陥ってしまうこともなく、いかにして語り得るだろうか?
生涯において長く意味を持つかけがえのない記憶が、分かりやすい「実体的な」基盤──社会的な成功経験といった──とはかけ離れた、他人から見ればなんということもない、ささやかで内密な出来事の思い出と結びついて存在することがある。そんな思い出の美しさを他人に伝えるのは難しい。記憶は、言葉は、いつだってそれを捉えそこない、「実体的な」事実は逃れ去ってしまう。『アンリ·ブリュラール』は自伝的作品とはいいながら、波乱万丈のライフ·ストーリーが展開されるわけでもなければ、小説家としての創作の舞台裏や著名な同時代人との交友関係が明かされるわけでもない。スタンダールはただ様々な、あえて言えば雑多で他愛ない思い出を、多様な省察を交えながら唐突かつ断片的に書き連ねてゆくだけであり、その過程で時として回想記を書き記すことの困難に戸惑い、はにかみ、口ごもり、同時に幸福な思い出を綴る行為それ自体に対して心からの幸福感を覚える作者自身の姿が仄見える。本書の特異な魅力の一つは、それが一個人の回想記という形式を通じて、書くという営み、思い出すという営みそのものの意味をも浮かび上がらせる、いきいきとしたドキュメントをなしている点にこそあるのかもしれない。
スタンダールは『恋愛論』において、「結晶作用」という名高い比喩を提示している。スタンダールいわく、オーストリアの炭鉱都市ハラインでは、坑夫が塩坑内に枯れ枝を置いておき、数カ月たってから取り出すのだという。これによって枯れ枝を塩分を含んだ水が濡らし、そこから水分だけが蒸発することで、枯れ枝はきらめく塩の結晶に覆われ、核となった枝そのものはほとんど見えなくさえなる。観光客向けの即席のダイヤモンド飾りの出来上がり、というわけだ。スタンダールは恋愛をこれに準える。すなわち、一度恋に落ちた者は思いを寄せる相手をあるがままの姿で見ることができず、眺めるほどに新たな、時として存在しない美点を見出し、ついにはその実際の姿は見えなくなってしまうというのだ。スタンダールは例として、恋に落ちた男が思いを寄せる女性の全身を一部位ごとに取り上げて美しさを賛美し始めたが、彼が褒め称えたうち少なくとも女性の手については天然痘の跡が残っていてお世辞にもきれいだとは言いかねたというエピソードを挙げている。
『アンリ·ブリュラール』が描きだす思い出も、こうした恋愛の性質を共有しているように思われる。記憶の深みに思いを差し向け、自分にとって大切な思い出と思われるものを取り出してみるとき、それを巡るあるがままの事実関係(例えば場所、時間帯や天気だっていい)を取り違えていることなど珍しくない。しかしそれはおそらく、私たちにとってこの思い出が大切でないものだということを意味しない。思い出の本質、あるいはその真実は、それが纏う印象とそのきらめきの方にあり、私たちは幸福の結晶とも呼ぶべきそれらを心の内に携え、時として取り出してみることで、再び晴れやかな気持ちで未来へと目を向けることができる──その結晶を言葉につかみ取ろうとすると、しばしば脆くも崩れ落ちてしまうものだとしても。