フィールドワークとして生きる

村上陸人

 週末の午前、近所の大きな公園に息子を連れていく。段差や落ち葉、なんでも新鮮な驚きとともに感じられるようで、走り回っては奇声をあげる。

 公園には同じような親子が沢山いる。ひとりで黙々と花を並べる子、シャボン玉を大量生産する子、側溝でラジコンを全速力で走らせる子、みな思い思いの遊び方をしている。

 交流も生じる。地面に穴を掘って座り、石を並べている子のそばに息子が座る。石の交換が始まる。親同士は何とも言えない空気感になる。このときの親が発する言葉が面白い。「石もらった、ありがとうねー」「優しいねー」と自分の子供への語りかけや自分の子供視点での描写をしながら、相手の子とその親への「一緒に遊んでくれてありがとう」というメタメッセージを発する。このよくわからない語りかけを重ね、子供たちも遊びに興ずるうちに、場全体に一緒に遊ぶ雰囲気がただよう。

 現代的なよそよそしさのあらわれということもできるかもしれないが、ある種の人間らしさのあらわれのようにも思える。出会った他者と、互いに敵対心がないことを示しあうための掛け声があることは、いつかどこかの民族誌でも読んだ気がする。平和構築の技法なんていうとあまりにも大げさだが。

 親同士での会話がほぼ発生しないことも興味深い。あるとしたら子供同士がぶつかってしまったり、おもちゃや遊具をめぐって喧嘩になりかけたとき、「ごめんなさい」と声をかけるくらいである。自己紹介もなにもない。一緒に遊び始めたときに「こんにちはだねー」と子供視点で社交くらいはするものの、親同士で「こんにちは、初めまして」なんてことはまずない。別れの挨拶もまたない。子供たちが遊びに飽きてその場を立ち去れば、親も立ち去る。まれに「どうもありがとうございました」と交わすこともあるが、気まぐれな子供の行動に振り回されて突発的に別れの時が来ることのほうが多い。

 こうした人間関係のあり方から、日々の社交を照らし返すこともできるだろう。挨拶や世間話よりもはるかに素早く、子供たちが非言語的に打ち解けあっている。そのリズムに親も巻き込まれて、言葉なく謎の一体感が生じている。

 公園での出会いには目的がない。誰かと知り合いになろうとか、人脈を広げようとか、そういう意図がまったくない場所で、それでも人と人とが一時的に近づき、散っていく。名前も知らない。来週また会うかもしれないし、二度と会わないかもしれない。そのことに不安を感じてもいない。

 公園で起きていることは、小さな公共なのかもしれない。名前を知らない相手と、短い時間、同じ場を共有する。そこでは濃密な関係は求められない。むしろ、濃くなりすぎないことが重要だ。踏み込みすぎと無関心の、中間のあたりでさまよう。「ありがとうねー」や「貸してくれたねー」という宙づりの言葉がただよう。

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