『シンフォニック・エッセイ』

原凌

  その十二「禰津村紀行」

 この秋、長野県の北東に位置するとう市、禰津ねつ村を旅した。長野新幹線で上田まで、そこから千曲川に沿って、在来線で二十分ほど南東に向かうと、田中という駅につく。さらに駅から自転車で三十分程、湯ノ丸の山(長野県と群馬県の県境にある山)の方へ、どんどん登ってゆくと、禰津村が見えてくる。

 この旅を通じて感じたことは多い。おそらく一番は、観光地とは言えない地を、手探りで旅した、はじめての体験だったという点にはじまる。旅先では、自らが旅の素人であると、つくづく感じた。禰津村と、そこに生きた歩き巫女「ノノウ」の歴史については、『信濃の歩き巫女─祢津の里ノノウの実像』(石川好一著)を読み、事前に学んでいた。村の雰囲気を肌身で感じるとともに、実際に書物に挙がっていた遺跡を、この目で見てみたかったのだ。

 旅慣れた者にとっては当たり前なことだが、この旅を経て強く実感したことがある。それは、寺社仏閣にせよ、自然風物にせよ、地図から想像していたよりずっと、行きづらい場所にあったということ。禰津村に行くのでさえ、電車だけに頼れない。駅から歩いていくのは相当な覚悟がいる。宿もない。自転車のお陰で、一日で多くを見ることができたが、山の麓にある禰津村の最高地から先、もう人家が見えない地点までくる。山道の入り口で、山越えをすれば、群馬の嬬恋村の方へ抜けるのだろうか。自転車がすすめるのはここまで。ここからはさらに階段やら、道といえるのか怪しい山道やらを行くより他ない。

 禰津村、西宮地区の城山、山腹に鎮座するのが「宮嶽山稜神社」、通称「四の宮権現」である。村の北西部の端、参道の入り口まではすぐに見つかるのだが、茂みの中に分け入って石段を上り、本殿に行くまでには、しばらくのためらいがあった。当日は平日にして曇り、村の中は閑散としている。森の中へと進んでゆく石段を上ろうとするのだが、如何せん、暗いのだ。ああ、昼でも森の中はこんなにも暗いのだ。本殿まで、いったいどのくらいかかるかもわからない。人気もない。村人が大切にしている神社であろう、石段が見える程度には掃除がなされているが、大切な行事の時にだけ、お参りする神社なのかもしれない。本殿が視界に入らぬまま、どのくらい続くかも分からぬ石段を登り続けないといけない。決断が必要だった。

 蜂も狂暴化している時期だ、所々蜘蛛の巣が頭上に見える。つい気になってしまう都会人我は。木の枝を拾い、蜘蛛にあやまりつつ、頭上の巣を取り払い、「安全チェック。」などとのたまっている時点で、まだまだ修行不足だ。何者かに「ぶーん」と耳元でささやかれるだけで、「スズメバチにあらずや。」などと嫌疑をかけてしまう。それでも、石段を数百段登っていく過程が、旅のどの時間よりもはっきり思い出される。石段の途中、巨大な黒い蝶のお出迎え。後羽に、ふさふさのボンボをぶらさげた黒い蝶。捕まえ方も名前もわからないけれど、立ち止まって行方を追う。何年振りだろう、蝶を見て、こんなにうきうきしているのは。そして、ほんの少しの間、雲間から光が森に射し込むと、森の色彩は様変わりする。森の二重人格を知る。石段を登りきると、拝殿が視界に入ってきた。拝殿を見るだけなら、何でもない。どこにでもある拝殿にしか見えぬ。ここまで来られたことの達成感も、次の考えによってすぐに消えてしまった。蜂に関する素人知識を蓄えた僕は知っている。神社の拝殿やら山小屋やら、雨風を凌げるところ、スズメバチたちの巣があるということを。拝殿の景色よりも、石段を歩きながら見た景色の方が、ずっと心に残っていた。

 石川氏の著書によれば、この「宮嶽山稜神社」の歴史は平安時代まで遡る。(以下、石川氏の著書を参照。)神社の祭神は清和天皇の第四皇子、貞保さだやす親王だと伝えられている。伝承によれば、貞保親王は、京の都で管絃の達人として名を挙げていた。しかし、皇子が宮殿で琵琶を演奏していた或る日、その音楽にのせて空を舞う燕の糞が、皇子の眼中に落ちてしまう。皇子は失明、盲人となって、信濃国、山の湯で湯治を試みた。治療は成功せず、皇子は都に戻らぬまま、禰津村近くのうんの里に没した。禰津村の中でも長い歴史を持ち、かつてノノウ達が住んでいたのが西部地区。この地区の由緒ある神社に祀られている者こそ、一流の芸能人にして、盲人の貞保親王なのだ。さらに、日本の伝承ではよくあることだが、この話と類似した物語が、京都は山城国、宇治の四宮村に「あまみこと」伝承として伝わっている。平安期、第五十四代天皇·仁明天皇と同腹の弟、人康親王の話だ。詩歌管弦の達人だった彼も同様に目を患い、盲目になった。失明の後、都に戻ることなく、盲人たちに学問や詩歌管弦の技術を授け、四宮に葬られた。ここから「貞保秦王伝承は、山科地方の人康親王伝承が祢津に伝わり地方色を加味されながら成立したものではないか」という推察が可能らしい。どのようにして禰津の地にこの伝承が伝わったかについて、研究の余地があるそうだ。石川氏は、この禰津の四の宮権現に、「この地方の目の不自由な人たちが集い、盲人の管絃仙(貞保親王)の霊を供養し、四絃·催馬楽など奏したのかもしれません。その際、加持祈祷·施術·導引なども行われ、それを求めて、近郷の女性たちが祢津の地を訪れたのではないか」と考えており、江戸時代、この地にノノウが寄り集まった、一つの歴史的背景として捉えている。ここまで、芸能、盲人、宇治という言葉が登場したが、これも不思議な縁。これまでにまた別筋で関心を寄せていたもの同士が、また結びつきはじめている。もう少しこの話をすすめたい。

 旅より前に、禰津村の資料を確認した際、すっかり読み落としていたことがある。それは、貞保親王の没した地が、海野の里であった、という記述だ。うんという地名や海野氏の歴史をよく知らなったこともあり、読み飛ばしてしまっていたのである。『シンフォニック·エッセイ』を執筆するにあたり、再び本書を熟読していた際に、貞保親王と海野とを、全く結び付けぬまま旅をしていた自分に、改めて驚いた。

 うん宿じゅくを知ったのは、たしかに偶然だった。禰津村、田中駅周辺の宿を探していた時に、海野宿という地域に旅館が多数あることを知り、そのうちのひとつ、古民家を修繕した旅館に一泊することに決めた。ここに、この旅と海野とのつながりが生まれた。禰津村から田中の駅まで帰還し、千曲川沿いに西方へ歩くこと三十分ほど。線路と平行に歩き、踏切を超えると、向こう側に鬱蒼と生い茂る樹木が見えてくる。海野宿と千曲川にはさまれた、白鳥神社境内だ。この白鳥神社を玄関として、旧時代に彷徨う道がはじまる。視界に収まらぬところまで、まっすぐにのびる街道。街道の両側には、江戸時代の面影を残す旅籠屋式の木造家屋がずらっと並び、道の脇には小川に枝垂れ柳、アニメの世界である。

 

 鎮守白鳥神社に守られている海野宿は、寛永二年(一六二五年)に北国街道の宿駅として開設された。北国街道は、佐渡で採れた金の輸送や、北陸諸大名が参勤交代で通った道であり、江戸との交通も頻繁で善光寺への参詣客も多かった。この地域の交通の要衝であった海野宿は、たいへんな賑わいを呈した。
 明治時代に入り宿場の機能は失われてきたが、海野は、宿場時代の広い部屋を利用して、養蚕·蚕種業で復興した。この養蚕最盛期の明治·大正時代の蚕室造りは、江戸時代の旅篭造りと良く調和して、現在まで残されてきた。
 そして、昭和六十一年に「日本の道百選」、続いて昭和六十二年には、「重要伝統的建築物保存地区」の選定をうけた。
(白鳥神社、配布資料「白鳥神社と海野宿」より引用」)


 海野宿が開かれる前から、この地を守っていたのが、白鳥神社なのである。千曲川を視界に収めた、この神社の歴史についても簡単に触れておきたい。


 白鳥神社は、平安時代にこの地に鎮座していたことは、明らかである。それは、「源平盛衰記」に記される木曽義仲挙兵のくだりによる。義仲は、治承五年(一一八一年)海野氏を中心に白鳥河原で兵を挙げた。この白鳥こそ白鳥大明神である。これが史書の初出であるが、白鳥神社の創建が、いつであるかは、明確ではない。しかし、海野の地は、奈良時代に海野郷と称し、この地から献上されていた品が、正倉院御物として残っている。そんな事からも、白鳥神社の創建は、奈良から平安にかけてと推測できる。(同右)


 白鳥神社は主に日本やまとたけるのみことと海野氏の祖先とを祭りしている宮であるらしい。「白鳥」という名も、亡くなった後、白鳥となったという日本武尊とかかわりがある。日本武尊の東征時、ここ海野にご滞在になったという言い伝えがあり、彼が亡くなったとき、海野にも白鳥が舞い降りた。「そこで、海野の民は、お宮を建て、日本武尊を祀った。そして、仲哀天皇の二年、勅命により、白鳥大明神と御贈号された」と言われている。そしてもう一人、白鳥神社で祀られているのが貞保親王だった。禰津と海野とを、彼が結び付けてくれている。不思議な縁で、四の宮権現と、この海野の街、そして白鳥神社に出逢った。個人的には、この後、貞保親王にまつわる地、木曽義仲にかかわる地、それらにまつわる書物を読みたい。さらに、北国街道。北国は富山を中心に、学んでいきたいエリアがまだ残っているのだ。


 貞保親王を中心に、歴史と旅とがかみ合い、くるくると回り始めている。話が前後するが、四の宮権現に行く手前、禰津村の西宮地区にある祢津建事神社についても触れておきたい。禰津村について、はじめて足を踏み入れた神社だ。神社の手前には、さみしそうなぶらんこが二つ。それに歌舞伎舞台もある。振りかえると、遮るもの一つなく、霧ヶ峰の山々を一望することができる。


 祢津西宮に鎮座する祢津建事神社は明治以前は、諏訪社(諏訪大明神)と呼ばれていました。その神社の東北一帯には地字「御射山」·「岩井堂」などと呼ばれているところがあります。
「御射山」とは、祢津氏が神氏の一族として御射山神事を行っていたことを伝えている地字名であろうと思われます。


 歩き巫女ノノウが禰津村に住むようになった背景には、必ずやこの村の風土とかかわりがあったに違いない。その歴史的背景を考察するに及び、祢津氏の家系には、諏訪社と深いつながりをもつ者がいたことを、石川氏は紹介している。『諏方大明神神画詞』という、諏訪信仰の聖典といわれる書物の中に、祢津の名前が登場する。祢津神平貞直である。滋野氏の出身で、鷹匠として名を馳せた。貞直は、母の胎内にいた頃、お告げによって、諏訪の上社の宮司の貞光の子となり、神平を名乗るようになったらしい。保元·平治の乱に出陣し、戦の強者にして、東国に双びなき鷹匠であった。

 祢津神平は、夫婦揃って鷹を自由に操れる技能を身に付けていた。貞直の義父の名をくんで、祢津の鷹飼いは、「斉頼派」といわれている。鷹匠の技能も、元を辿ると巫術とのかかわりが深い。歴史的にみても、この話は、禰津村がノノウを呼び寄せる歴史的背景といえるのではないか。石川氏はそう語る。ちなみに、「諏訪大明神画詞」には、狩りで得た鷹を、諏訪社に寄贈しなかったばかりに、盲人となってしまった者の話もあるようで、ここにもまた、盲人の話がかかわっている。

 禰津村の「御射山」と「御射山神事」に話をもどそう。「この神事は旧暦七月二十六日から三十日まで神(諏訪社)の狩場である御射山に出向いて狩りを行う祭りのことです。その狩場であった御射山に仮神殿(穂屋)、その他にもいくつかの仮屋を設け、巻狩りのあと、神と人びとが一体になって祭りや祝祭を催しました。その祭りの際に神に供える供物(主にキジ)をとらえるときに活躍するのが鷹(鷹匠)です。」

 鷹匠とその儀式、諏訪社とのかかわりがこの村にはあるのだろう。そして岩井堂。岩井堂には直接足を運んだ。ここにもまた、見てみたいものがあったからだ。四の宮権現から北東の方に歩いて数分。とんぼで一杯の水路沿いにすすむと、人家が見えなくなるところに、「お姫尊の岩」のある岩井堂の入り口が見える。岩の地点を示す標識はあったのだが、如何せん入り口がどこかわからない。山道は道と呼んでよいのかわからない程度には荒れていて、一度道を間違えて墓地のような所にでてしまう。ここではなさそうだと再び入り口付近まで戻り、もう一方の道をゆく。ここもまた、四ノ宮権現と同様のためらいがあった。もう自転車も使えない、どのくらいの距離か見えない。でも、ためらうくらいの場所でないと、行く意義もない。どんどん登っていくと、人の手入れが行き届いた山道になっており、一段と高い所に、お姫尊の岩が見えた。たしかにひときわ大きな岩である。巨石には線彫りされた二尊像が見える。石川氏によれば、禰津領主松平忠節の奥方の物語が、この岩井堂にある。生前、奥方は婦人病に悩まされていたのだが、霊夢の導きでこの巨石に祈りを込めたことで病が治癒した。それから、その喜びを多くの女性と分かち合い、施すため、巨石の近くに庵を結び、病をもつ女性を多く救済したそうだ。

 この岩へ導かれたのも女性であり、それからこの岩に祈りをこめてきたのも女性であるということ。この岩がどんな経緯でここに形成されるに至ったかは分からない。この山道に、これほど大きな岩がむき出しで道から飛びだしていたとすれば、自ずから信仰が生まれるのは想像に難くない。きっと、巡業から帰った巫女も、この山道を登って岩に触れたのだろう。ここまで来られた満足感と、もはや自転車では進めぬ山道への未練と、どちらも心に残った。

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