その十一「禰津村めぐり」
一、
一年程前、大伯父原秀雄の『シンフォニック・エッセイ』を通じて祖先を知り、彼らの生きた故郷、信州、南伊那に旅する機会を得た。ふるさとに旅をして、はじめて気づいたこと、はじめて出逢ったもの、そして人。伊那の風景、伊那を囲む自然、そこに暮らす人々の方言や肌の色や顔つき。そして、民俗学者・柳田國男とふるさととの、深いかかわりを知ることができたことも喜びの一つであった。生きて、心が求めるものに耳を澄ませようとし、まわりの助言と協力とを受けながら、遂に見つけたもの。ただの偶然として終わらせたくない。一本の細い糸を手繰るようにして、自分自身の道を歩みつづけたい。何もつながりなどないように見えていた二つのものが、目の前でつながりはじめている。こうした贈り物に感謝し、よろこびをかみしめながら、これからもその土地に出向き、想像を膨らませながら学びを続けていきたい。
柳田國男については、高校生の頃に出逢った「清光館哀史」が好きで、繰り返し読んできたものの、他の民俗学的書物となると、途中で頓挫してしまうこともしばしばあった。しかし、遂にこの信州伊那、飯田と柳田とのつながりを知ることができたのだから、ここをきっかけに柳田と民俗学にもっと近づきたい。そう思って、柳田の『信州随筆』を紐解いた。信州に旅をしなければ、ずっとひらくことのなかった書物。とある秋、朝の通勤時間。列車に座り、一行目からゆっくりと読み始める。多摩川を越えたあたりのことだと思う。晴れ渡ったきれいな水色の空と、多摩川の透明な風景が記憶に残っている。秀雄に出逢い、秀雄の書物に出逢い、伊那に出逢い、柳田國男に出逢い、そして『信州随筆』に出逢った。第一章を読み始めてすぐに感じた。この章は、自分のために書かれているのではないか。どの話を切り取ってみても、自分の人生と深くかかわる話ばかりだったから。
『信州随筆』は、信濃由来の物産品から話がはじまる。幼いころに、柳田がはじめて「信濃」という名を耳にしたのは「信濃柿」という柿の名前だったという話を皮切りにして、「信濃桜」の話もでてくる。それは、信濃由来の事物が、全国に流布していったことの例として挙げられていた。そうした信濃の物産品が、どのようにして全国に広まっていったのか、その物産品の起源には民衆の信仰がかかわっているのではないか、信濃とそれ以外の地域との間には、いかなる交流がありえたのか。一地方の閉鎖的研究に終始することなく、他との交流を常に意識する研究姿勢が、冒頭に強く打ち出されていた。
そして信濃を出発して全国に広がったのは、物産品だけではない。人もかかわってくる。次に本章で注目されていたもの、それが、信濃で生活を営む歩き巫女だった。通称「ノノウ」とよばれる。信州は小県、かつて禰津村と呼ばれた地(現在の東御市祢津)に、ノノウたちは、集団で暮らしていた。ノノウは、巫術(神の言葉を伝える口寄せなど)を生業とし、全国津々浦々を巡業していたようだ。特に関東から東北地方が、禰津村のノノウたちにとっての主な巡業地域であり、柳田國男は、この巫女に関心をよせるとともに、ノノウたちと諏訪社との深いかかわりを想像している。加えて、信濃由来の物産品が全国に広まってゆく過程と巫女らの活動とのむすびつきにも言及しており、今後の道しるべとして、ノノウを大切な考察対象にしているように見えた。僕は、『シンフォニック・エッセイ』の脱線として、ノノウと禰津村のことを考えてみたい。「巫女」やら「禰津村」やら「諏訪」やら、またしても、僕にとってどこか聞き覚えのあるものばかりが、突然まとまって姿を現してきたのだから。それに加えて、「諏訪」と「鷹」とのつながりまでも知るようになった。「鷹」もまた、僕にとって大切な生き物である。まずは、「ノノウ」にかかわる本を読みこむ。そして実際に現地に赴いてみる。何事も、やってみるまで、本当に何が起きるかなんてわからないのだから。