フィールドワークとして生きる

村上陸人

 生後間もない息子と暮らしていると色々なことを考える。考えるのだが、抱っこであやしていると手がふさがるので文字が書けない。これは原稿が書けない言い訳ではない。いや、言い訳かもしれない。本もスマホも触れない。両手が使えないと、こうも何もできないのかと驚く。仕方がないからモヤモヤと考えて、そのままにする。そのうち息子が寝て、僕も寝てしまう。

 抱っこで息子をあやしながら、他者と共に生きることを考える。彼はまだ、言葉を発さない。泣くことで空腹や心地悪さを伝えてくる。泣き方には色々あるが、どの泣き方がどのような訴えかけに対応しているのか、僕はまだ読み取り切れない。しかし、意味はわからなくても存在の重みは伝わる。ワンオペの時間は、否応なく対峙する他者と、言葉に依らず共に生きる時間に他ならない。

 彼はまた、微笑む。新生児微笑というらしい。調べてみると生理的な反射らしい。周囲の人間に愛され守られるための本能的な行動らしい。生理的な反射と分かっていても、目の前の息子の口角が上がると嬉しい。自分の理性ではなく情動が反応するのを感じる。もうしばらくすると、彼は社会的微笑なるものを始めるらしい。人の声や顔を認識し、刺激への反応として微笑むそうだ。周囲の人からの働きかけに対して赤ちゃんが微笑むと、周囲の人は微笑み返すだろう。赤ちゃんの微笑み方によって周囲の反応も違うだろう。微笑み微笑み返される相互作用を繰り返すことで、表情の使い方を学習するのではないか。真偽のほどは分からない。

 新生児とは意思疎通が取れない。少なくとも日々他者と当たり前にやっている意思疎通は取れない。何らかの相互行為は確かにあるが、それが何たるかを言語的に記述するのが難しい。一方で私達は新生児と、否応なく共に生きる他者として時空間を共有している。言葉に依らず、存在の重みをやり取りしている。思えば、大人同士のやり取りにも、言葉のやり取りと、存在の重みのやり取りがある。相手との関係性、相手の社会的地位、あるいは相手が立派な生命体であることが、相手の存在を重みづけている。読まれたコンテクストによって、その人の存在の重さが伝達される。ここで急に、会社員生活でのリモート会議と対面会議に思いを巡らす。対面で時空間を共にしてしまうと、言葉以上の存在感がやり取りされる。それはときに便利だが、ときに面倒くさい。リモート会議が年長者の余計な圧を削ぐのは心地よい。一方で、対面の身体性が育む、ケア、愛、配慮、尊厳が間違いなくある。日々の息子との相互作用から、それらが人間関係の副産物ではなくむしろ根幹であり根源なのかもしれないと思ってしまった。

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