『シンフォニック・エッセイ』

原凌

  その7「幽庵の来歴」

 久し振りに、秀雄の身の上話に戻りたい。本書第一編、第三章「幽庵」において、秀雄は、簡潔な自己紹介をしている。検事上がりの弁護士として働いていること、自宅で零細法律事務所をいとなんでいること、五十代になってからは、本職は三分、文筆活動が七分といった生活をしているということ。文筆で稼ぐことはままならず、年金を貰ってどうにかこうにか生活をしているということ。「清貧居隠士」をもって任じており、借財がないことを幸運としていること。ここで切り上げてもいいが、あまりにも短きに過ぎるので、これまでにものしてきた文章を以って、紹介に代えさせてもらいたい。そういって、第四期司法修習生の記念文集に寄稿した文章の再掲が続いてゆく。再掲された文章は、十周年に際する寄稿文、二十周年、三十周年のそれである。

 十周年記念文集からはじめたい。修習終了十周年に際し、秀雄は四十歳、エッセイを書いている時点からは、二十六年前のことになる。

「十年略記」と名付けられた文章は「去る四月、検事生活十年が過ぎた。結婚十周年記念日も過ぎた。三児を得、一児を失い、齢満四十歳となった。」というところからはじまる。任官から十年経つということについて、「特に感懐もない」。「検事十年生意気盛り、という言葉があるそうであるが、現在の私には、その或る種の自信に裏付けられた実感もない。任官したときと同じような気持ちで、薄氷を踏む思いで日々の仕事をやっている」。と断ってから、淡々と来歴が語られてゆく。

 昭和二十七年、三十歳で任官。新潟地検検事を拝命する。昭和二十八年四月、新潟地検高田支部へ転任。後の述懐によれば、万事要領の悪かった秀雄は上司に疎まれて、はやくも一年目にして左遷されたようだ。当時の秀雄は「飛ばされたことには全く気付いていなかった」。雪の厳しいこの地で、長女杉子が生まれる。高田は、二年と四カ月の、長きにわたる滞在だった。

 昭和三十年七月、釧路地検へ転任。零下二十五度の地。またしても雪国。これも職業的には左遷のようだ。

 昭和三十一年八月、函館地検へと転任。「函館へ来て、釧路では見られなかった赤松や杉の木を見、函館山に上って北上半島(原注:下北半島の誤り)を望見したときは嬉しかった」云々。次女倫子生誕。左遷されたことをのぞくと、職業についての心持ちといったものは絶えて書かれておらず、赤松やら杉やらの話ばかりしているのが面白い。

 昭和三十二年四月、横浜地検へ転任。「任官五年目で雪の積もらぬ地へ来た」。

 昭和三十四年一月に、次女倫子を交通事故で亡くした。

 同年八月、東京地検へ転任。前任地の横浜から勤務することとなる。長男森太郎生まれる。昭和三十五年八月、横浜市戸塚区、東海道の松並木のそばの森に、小宅を新築した。戸塚に家を構え、ここに身を埋める決意をしたようだ。秀雄の出生地自体が横浜であったこと、娘を失った地であること、それゆえ「思い出は深く、第二の故郷の気がする土地となった」。

 家を構えてから一年、昭和三十六年八月、長野地検へ転任。故郷の山河にほど近いこの地で、四十歳、任官十年を迎えることとなった。

 戦後無一文で出発し、働きながら夜間学校に学び、法律の資格をとった苦労人にしては、仕事に対する貪欲さというものが、全く感じられない。事務的な異動の話のほか、職業に対する思いはもう、見えなくなっている。次に、この十年後に書かれた二十周年記念文集への寄稿文である。これは、秀雄が五十歳の時に書かれたものだ。出版自体が流れてしまい、寄稿文は、秀雄の引き出しの中に、長年眠っていたようだ。エッセイの執筆にあたり、十年ぶりに秀雄は自らの文章を書き写す。

 昭和三十九年四月、二年七カ月勤めた長野地検より、横浜地検への転任。これは希望した転任だった。転任も束の間の六月、修習時代を過ごした浦和の地から、一報が届く。修習時の教官で、秀雄がお世話になった、弁護士A先生からの誘いである。浦和の地で、共に弁護士として働かないか。検事を辞する気のなかった秀雄だが、実際に浦和に足を運び、心が動いたようだ。弁護士として、浦和で働く決意をする。その動機は「人生意気に感ず 功名誰か復論ぜん」だった。長男も生まれ、四人家族を養う秀雄は、妻を説得し、約半額の給与という条件をのんで、(妻を説得して)浦和で弁護士として働きはじめた。

「自宅から片道二時間半もかかったが苦にならなかった」。通勤の間に、忘れかけた民事の勉強をしなければならない。A先生から、直接の薫陶を受けて、仕事にも張り合いがあったであろう。浦和での弁護士生活をはじめて一年の後、事態はまた動く。A先生が急逝されたのだった。浦和への移住も、視野に入れ始めた時の訃報だったという。A先生が亡くなって一年ばかりして、秀雄は浦和を去る決意をする。昭和四十一年四月、横浜、戸塚の森の中の自宅を事務所とし、横浜弁護士会に登録して、開業。以来、エッセイを執筆するときまで、零細弁護士事務所をいとなんでいた。

 四十歳を過ぎたころ。職業人生も十年を越え、脂がのったころだったろう。四十四歳で、森林の中に弁護士事務所を開業とは、ほとんど隠遁行為でしかない。秀雄は「あえてそうした」と言っているから、それなりの決意が、もうずっと前に、芽生えていたのだろう。ここからの文章も面白い。二十周年記念文集の寄稿文というより、土方の仕事や庭仕事やらの紹介文といったおもむきがある。書きたいことを書いているだけで、法律のことも仕事のことも、もう絶えて見られなくなる。

 自宅兼事務所は、崖やら川やらに囲まれた、城塞のような構えをしており、「家のまわりには四季を通じてヒヨドリ、メジロ、シジュウカラ、ウグイスなどいろいろな鳥の姿が絶えない」。ひたすらに、生き物の話がつづく。ネズミ、青大将、カブトムシ、コガネムシ、ムカデ、コオロギ。「こういったところに住んでいると──ことに気持ちよく晴れ渡った日などには、法律書を読んだり、訴訟用の文章を書いてばかりいるのがアホらしくなる。自然が私を呼ぶのだ。すると、無性に、矢も盾もたまらず外へ飛び出したい衝動に駆られる。それで、できるかぎりの暇をつくっては机から離れ、庭仕事をするようになるのである」。

 土方として、池をつくる。「ガマも池に棲むだろうと思っていた」が、産卵期の他、近づいてこない。「そのかわり、足が長くて形のよいアカガエルや、小さくて醜いイボガエルが棲みついた」。なぜ、池にこだわるのか。「私はずっと昔から、季節になるとカエルの声が聞こえる家に住みたいと思っていた」からだ。「どうやらその念願が果たせたようである」。

 土方の仕事が一段落すると、今度は農夫となって、家庭菜園をつくり、植林の作業にも手をのばす。茄子、キュウリ、大根。梅、夏蜜柑、金柑。「そのうち庭の一隅に小庵をつくり、『幽庵』と号し、気の向くままに読書をしたり、よしなしごとを書いたりする生活を送ってみたいと思っているが、そこまでできなければそれもまたよしである。ただ、身も心も平穏、平静に生を終えることができればそれでよいのである」。年月がすぎ、事務所に来客もなくなった。気づけば事務所自体が「幽庵」となった。「私の墓石には『幽玄居士』とだけ刻してもらいたいと思っているが、しいてそうしなくもかまわない」云々と、次第に文章はお墓の話へと続いてゆく。「こんなことを書いたからといって、遺書と勘違いされぬようにお願いしたい。まだ当分は長らえて、浮世の移り変わりぶりを眺めたく思っているのである。できることなら、弁護士の要らない世を見てから、さよならをいいたいものだが。‥‥以上。」

 三十周年記念文集については、ほとんど書かれていない。三十年の履歴は、くり返しになるから省く。最後に『伝道の書』一―二を引用しておわる。「空の空 空の空なるかな すべて空なり」。
『法曹三十五年のあゆみ』という小冊子に至っては、寄稿することはなく、その経緯すら忘れてしまっていた。

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