猫の目

益田伊織

 石川県羽咋市、『万葉集』にも名を残すという由緒ある神社・氣多大社からほど近いところに、折口信夫の墓がある。大阪に生まれた折口は、こちらの願泉寺にある折口家先祖代々の墓にも分骨されている。羽咋市の墓地は彼が養子にした春洋の生家・藤井家の墓である。春洋は一九四五年、硫黄島にて、三十八歳の若さで命を落とした。愛人だったとも言われる彼の死を嘆いた折口は、彼が寂しくないように、と藤井家の墓に自ら骨を埋めることを望んだのだという。折口自ら選んだ墓石には次のように刻まれている。
 

もっとも苦しきたたかひに最くるしみ死にたるむかしの陸軍中尉折口春洋ならびにその父信夫の墓


 春洋の死については、正確な状況も、日付すら分かっていないという。そんな曖昧な戦死の通知だけを受け取った折口は、海の彼方での「もっとも苦しきたたかひ」に思いを馳せ、それを記念するための標として、海からも近いこの地に墓を築いた。折口が他界したのは一九五三年、春洋の死から八年遅れてのことだった。

 私が羽咋市を訪れたきっかけは、令和六年能登半島地震に見舞われた輪島市での避難所運営に携わっていたことだった。派遣期間中は羽咋市の施設での宿泊と避難所での夜勤とを交互に繰り返しており、夜勤明けの羽咋市での休務日に折口の墓を訪ねたのだ。

 私が輪島市を訪れたのは、既に地震発生から二カ月以上を経てからのことだった。水道設備も復旧していない避難所は日常が取り戻されているとは到底言えない状況だったとはいえ、生活のルーティンは一定程度確立しており、毎日が未知のトラブルとの戦い、といった状況は既に脱して、出口戦略を模索する段階に入っている印象を受けた。

 避難所として用いられている輪島市ふれあい健康センターの裏手、年間八十万人以上が訪れる観光名所でもあった輪島朝市の周辺は全焼しており、一面に鉄骨や瓦礫、ガラスの破片が散乱する中、ところどころにブロック塀や焼け残った建物の骨組みなどが残されていた。固有名を失った建物の残骸ばかりが景色を領している中で、石柱や石灯籠に刻まれた文字が残されているのが目を惹いた。「無病息災交通安全」。「献灯 市姫社」。カタストロフィーに晒されながらも元の状態をほぼそのままに保っている石という素材の堅固さを目の当たりにし、人が自身にとって大切な存在を記念して次世代へと引き継いでいくための標として、石に文字を刻み、それを墓とすることの必然性を感じた。

 折口信夫は太平洋の孤島で命を落とした春洋を「もっとも苦しきたたかひに最くるしみ死にたる」者として記憶にとどめ、その記憶を次世代にも引き継ごうとした。輪島で命を落とした人々、そして震災そのものの記憶はどのように引き継がれていくのだろうか? 震災の、また死の瞬間を、直接目にしていなくとも、あるいは目にすることができなかったからこそ、残された者は──折口がそうしたように──それを想像し、記憶し、未来へと伝えることに意味があるはずだ。

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