言語は物の意味を伝える単なる道具ではない。新しい意味を生み出して行く働きである。物の名も、物に附した単なる記号ではない、物の姿を心に映し出す力である。
(小林秀雄『本居宣長』三十二)
妙にひっかかる一節で、ノオトに書き留めたことがある。当たり前のことを、当たり前のように書いているのだが、どこか底知れないと感じていた。まだ、はっきりと体得できていない言葉として認識していた。最近、仕事のなかで、この言葉をふと思い出す体験があり、それについて書いてみたい。
年度末の仕事をしていた時のことだ。学校に勤めているので、クラス替えとそれに伴う資料の整理、並べ替えをしていた。来年度の新クラスの名簿一覧は、すでに完成しており、最後の調整もかねて、長い時間、それに目を通していた。クラス替えが確定し、保健カードやら、個人カードやらを新しいクラスの名前順に整理し直していく。この単調な業務も終わりを迎え、並び替えたカードの最終確認の段階に入った。
一人が新しいクラスごとに、生徒の名前を読み上げる。それに合わせてカードの整理に間違いはないか、整理を担当した者が確認する。生徒の名前が、一人一人読み上げられるのを聴き終えた時、不思議な体験をした。
小さい学校につき、一学年全員の名前と顔は一致する。しかし、一年間の授業でしみついた、旧クラスの雰囲気の中におけるその子、という印象を取り払うのは難しく、ランダムに新しく配置された新クラスの名簿をどんなに眺めても、立体的に浮かびあがって来るような、新クラスの雰囲気はなかったのである。しかし、一人一人の名前を、実際に声にだして、四十六名分、唱えてもらうと、急に視覚的にはっきりとした想像力が与えられた。それはまるで、新しいクラスに入って、幾度か授業をするうちに体にしみこんでくる感覚を先取りできたような感覚だった。ぼくだけではない、もう一人、資料の整理を担当していた今年度の担任だった教員も、似たような感覚をもったようだった。「なんか、面白い。よく分からないが、さっきよりもずっと、組み替えされた新クラスの雰囲気が分かったかもしれない、このクラスは授業、しやすそうだな」。
こうした効果が生まれたのは、一人一人の名前を呼ぶということを通じて、名簿を黙読していたときよりも、たちどまって丁寧に読むことができるようになったからだというのも一理あるが、それだけではないだろう。ぼくらは名前を呼ぶという行為を通じて、意識していなくとも、その人の姿を心に映し出しているのだ。声に出してみて、はじめて与えられた鮮明な視覚的想像力の働きは、この心から生まれてきているのだ。
万葉の時代を生きた人々は、人の名前を呼ぶという営みにつき、そこに呪術的な力を認めていたという。それは、遠い昔のおとぎ話ではない。人の名を呼ぶ、そういう誰しもがもつ経験の、その基盤にある言葉の力を、心がはっきりと感じていたということだ。現代の、頭でこさえた、頭だけに訴えてくる、記号的に言葉が使われた文章によって感性を摩耗させていなければ、おのずと思い出される経験なのだと思う。
四十六名立て続けに、人の名を呼ぶというのは、一つの呪文である。意味性はないが、それを聴く前と聴いた後では、心が別の在り方をするようになってしまう。