猫の目

益田伊織


 同人に感化され、数カ月がかりで『源氏物語』を読んでいた。平安時代の恋愛小説など、読みづらいばかりで退屈なのでは……などと考えていたのは杞憂で、読み始めこそ文章のリズムをつかむのに苦労したものの、すぐに惹きつけられていった。和歌の交わしあいによる恋愛の駆け引き、男性が女性の寝所に忍び入るために用いる策略の数々、身分ゆえの葛藤、政治的陰謀。それら人の業を、時として驚くほどの大胆さで描きながら、不意に脇役をめぐるコミカルな場面や、優美きわまりない遊戯の描写を挿入してみせもする。様々な要素を呑みこみながら滔々と流れる、大河のような豊かな律動を湛えた作品だ。
 人の業、と書いたが、そうしたものがたえず変わり続ける世界の表情と呼応していることが本作の広がりを生んでいる。例えば「椎本」より、父である八宮を失い、悲しみに暮れる姫君たちの描写。

明けぬ夜の心地ながら、九月にもなりぬ。野山のけしき、まして袖の時雨をもよほしがちに、ともすればあらそひ落つる木の葉の音も、水の響きも、涙の滝も、ひとつもののやうに暮れまどひて[……]


 姫君たちがしばしば涙をこぼすことは「袖の時雨をもよほ」すものとして描写され、そんな彼女らの涙は、「木の葉の音」や「水の響き」──この章の舞台である宇治は、京の中心部から離れた、山がちな地形と速い水の流れで知られる地なのだ──と「ひとつもののやうに」「あらそひ落つる」「滝」に準えられる。姫君たちの心は愛する父を喪ってから明けない夜に閉ざされていたとしても、季節は流れ、「野山のけしき」は移ろいゆく。変化を続けてやまない世界の様相は、時としてこの場面におけるように登場人物の心情に寄り添い、あるいはすれ違い、またあるいは心変わりを促す。物語が時の流れに対して開かれ、世界の変容を深々と呼吸していることが『源氏物語』の豊かさの所以だろう──それはまた、時空間的な広がりを捨象し、あらかじめ「設定」されたキャラクター間のやり取りとシナリオの推移において完結してしまう、典型的なライトノベルやアニメの閉塞性との決定的な違いでもある。

 本を読むことは自己を、他者に対して、世界に対して開くことだ。しかしそれはまた、自己についての理解を深めることでもある──などと書いてしまうと大仰に過ぎるかもしれないが、『源氏物語』を読みながら、少し昔のことを思い返していた。
 私は中高生のころ、当時流行していたいくつかのライトノベルやアニメに触れていた。しかしそれらはごくわずかな例外を除いて、現代日本で独特な発展を遂げたサブカルチャーへの抽象的な関心以上のものをもたらしてはくれなかった。同時期に私が好んでいたのがヒップホップで、それは部活動で行っていた登山と並んで、十代のころの私の大きな関心の一つをなしていた。
 登山とヒップホップにあってライトノベルにないもの、などと書くと下手な謎かけのようだが、私はおそらく、個が具体的な生の感覚から出発しながら、不意に世界そのものとしか呼びようのないものと触れ合ってしまう事態に惹かれ続けてきたのだ。しばしば戦略的に歌詞を抽象化するポップソングに対して、個の「フッド」に立脚し、固有名詞を平気で放り込みつつ、そうした具体的な生の条件の中で逆説的に浮かび上がる普遍性を模索するヒップホップ。それは普段の生活で意識することの少ない地理的・気象的条件に自らを晒し、そのことで身体を世界に対して開こうとする登山という営為に通じる点があると思う。
 最近ではヒップホップもあまり聴かないし、登山にもほとんど行っていない。しかしそれらは、単に放棄された過去の趣味というわけではなく、確実に自身を形成する上で意味を持っていた──そのように感じることができたのは、私にとって喜ばしいことだった。『源氏物語』を読むことがヒップホップを聴くことや登山に似ている、などと強弁するつもりもないが、少なくとも私にとっての関心の焦点は、どの体験においても似通っていた。読書は未知なるものとの出会いでもあるが、既知なるものとの再会ともなり得るのだ。

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