『シンフォニック・エッセイ』

原凌


  その4「貞造の記憶」

 小さい頃から旅館という空間が好きだった。それは、旅館が、旅という特別なひとときの記憶をかたどっているということもあるのだろう。お出迎えの庭も、部屋の扉をあけるわくわく感も、畳に寝転び、旅を嚙みしめるひとときも、温泉で癒される心と体も、碁を打ち、卓球にいそしむ時も。幸福な記憶がつまった場所として、想像力のおさまるところの知らない、旅館という場所が大好きだった。
 同人の白石から薦められた「花咲くいろは」というアニメがある。高校生の少女が、厳格な女将である祖母の下、旅館での修行を通じて、成長を遂げてゆく青春アニメーションなのだが、見始めたが最後、止まらずに終りまで鑑賞しきった。殊、オープニングの映像、ナノプライムの音楽にのせて、視点が空飛ぶ鳥のように動き、旅館の夕暮れを、翔って去りゆくワンシーンに心が動いた。
 旅館というだけで、妙にわくわくがはじけるのは、幼少期の幸せな記憶のほかに、ひょっとすると祖先の血も混ざっているのかもしれない。そう感じはじめたのは、秀雄の文章を読んでからのことだ。
 仙峡閣せんきょうかくは、天龍川を見晴るかす、急峻な崖の上に建てられた、小さな旅館である。名勝地天竜峡、天龍公園より下に位置する崖の中腹に、一九二四年、仙峡閣は創業された。その仙峡閣を中心となって動かした人物、その名を原貞造ていぞうという。
 秀雄の父、政雄は七人兄弟の長男だった。原なみゑ、政雄、廣司、貞造、四郎、実、八重子、七人の名前である。貞造は四男、秀雄にとって叔父にあたる。親族が多く携わった仙峡閣、その創業の中心的役割を担った貞造は、原家随一の嫌われ者だった。それと同時に、エッセイにおいて、これほどまで綿密に描写された人物も、この嫌われ者の外にはいないのである。
 秀雄は貞造叔父を一言で「虚士」と呼んでいる。妄想に生きた人間、その空想によって、親族の人生に多大な害を与えた人間として描いている。

T叔父(筆者注:貞造のこと)は第四章で書いたように「虚士」であった。かれはその姉であるN伯母(なみゑ伯母の略記)に寄生し、N伯母の死後は妹であるY叔母に寄生して人生を送ったといっていい人物だった。N伯母は私の知るかぎり、景勝地天竜峡の真ん中に住みながら、小旅館の薄暗く湿っぽい調理場と帳場でその後半生を費やした。土竜もぐらのように日の光に背いた三十五年間の労苦の生活だった。T叔父はN伯母から光をー日の光のみならず、人生における光をも奪っていたと私は見ていたのだが、彼女の方はちっともそう思っていなかったのだから、人生は非条理なものである。それどころか彼女は、「いまに貞造は成功する。いまに貞造はやり遂げる」といってその成功を信じ、待ち望んでいた。しかし、その成功がどんなものかをかれても答えられないのだった。そうしてみると、T叔父の漠然とした「事業」の成功が彼女にとっての光だったのかもしれない。

 貞造は、仙峡閣創業の中心人物だったが、旅館の実際的な経営を担っていたのは、長女なみゑであった。貞造は「旅館経営の方は一切を姉に任せきりにし、自分は姉が稼いだカネを持ち出して東京に仮寓し、もっぱら彼のいう『事業』に『活動』しており、活動資金の補充をする時とか年末年始でもなければ仙峡閣には帰ってこなかった」。東京で何をしていたのか。政治家やら有名人やらを拠り所にした、画商の如き商売をしていたようだ。「有名人のサイン帳など何やかやの書類がいっぱい詰まった重い革鞄かわかばんをぶらさげて」著名人を探し歩く。そして、うまい具合にお近づきになることができれば、ただ同然で仙峡閣の一部屋を貸して、そこで画を描いてもらうだの、その画を買い取るだの、そういった類の活動をしていたようだ。風景を満喫できるようなバンガローの増設はじめ、贅を尽くすこと、お金を蕩尽することに関しては、次から次へとアイディアが湧くのである。資金源は無論、仙峡閣であり、なみゑをはじめとする親族であった。貞造にお金を貸したら最後、返って来ることはないのである。

そんなようなことで時たま返ってくる時、彼はいまに大金をつかんで仙峡閣を天下の名士が雲集清遊する大旅館にするだの、天竜峡に一大美術館を建設するだのと大風呂敷をひろげ、N伯母を煙に巻いたり頼もしがらせていた。こんなふうに大言壮語するので、郷党のなかには彼のことを「誇大妄想狂氏」と呼ぶ者もあった。しかしお人好しの伯母は、弟の事業の成功がいつももう一歩というところでするりと逃げてしまい、先へ回っておいでおいでしているばかりであったのに、その言を最後まで信じて疑わなかった。

 なみゑは多忙もあってか、七十にも至らず命を落とす。最後まで、この放蕩弟の成功を期待して、働いていたようだ。家族離散の後、幼少期に世話になったなみゑに対し、秀雄は感謝の念を忘れていない。そのことも相俟ってであろう、身勝手な貞造のふるまいを、赦すことはないのである。なみゑの死後、仙峡閣は急速に衰えてゆく。実際的な力の乏しい貞造に、旅館を取り仕切る力はなかった。「そしてついに、多額の借金をつくって倒産し、土地建物一切を借金のかたに取られ、訴訟沙汰ざたまで起こして争ってみたものの、最後には仙峡閣から追い出される破目となって宿無しとなり、S叔父の清居に闖入ちんにゅうするの余儀なきに至ったという次第なのであった。」
 なみゑの死後幾年か経ち、ある宗教団体が、仙峡閣を丸ごと一億円で買い取るという提案をした。傾きかかった旅館の経営を、貞造一人で担うことはできない、そう判断した秀雄は叔父に、この、またとない商談にのるよう、強くすすめた。すると貞造はその提案を一笑に付す。「『二億円以上でなけりゃ売らん』といった。私はあっけにとられて二の句がつげなかった」。結果、死ぬまでに払いきれぬほどの借金を負うことになるのである。それから数年が経つ。貞造はよわい七十を超えた。依然として有名人のサイン帳やらなんやらを持ち歩く画商の如き事業をつづけていたが、見かねた秀雄は、仕事を少しずつ手放し、心穏やかな老年をすごすように叔父にすすめる。すると、貞造は真面目な顔でこう言った。「なあに、おれは百五十まで生きられるからだいじょうぶだ」。秀雄は苦笑するより他なかった。

 一九八九年、二月二十四日。それは金曜日の朝のことだった。それは、昭和天皇の大喪の礼の日にあたり、秀雄はテレビで、式典の様子を見ていたのだった。そこに叔母の八重子から、一本の電話が入る。周章狼狽した様子で、八重子は、貞造が亡くなったことを告げた。早朝八時四十分、飯田病院にて、貞造は息を引き取った。貞造の死に際して、秀雄が口にした言葉は素直である。「私はいくつかの理由からT叔父の葬式には行きたくなかった」。それだけではない。「その葬式に、わざわざ遠くの信州まで少なからぬ費用とたくさんの時間を費やしてまでも出向かねばならないほどの世話になったというような義理はないのであった」。死に際まで、叔父への寒々とした態度は一貫している。それでも、八重子叔母のお願いとあっては断り切れず、飯田の病院まで急いで向かったのだった。この、故郷における貞造の葬式にまつわる数日間は、想いも寄らぬ思い出を、秀雄に残していった。
 貞造と家族の記憶を回想しつつ、秀雄は、伊那までの、長い道のりを行く。故郷への久しぶりの旅路とあって、次第に叔父の死のことなど忘れたかのような書きっぷりである。豊橋に到着するや否や、ぷらりと、自身が青春を過ごした、加藤秀次郎商店の面影を尋ねに街へと繰り出す。豊橋の思い出に別れを告げると、今度は飯田線にのって、ゆったりとした鉄道旅である。天竜峡までの秘境駅、列車を囲む山河の絶景に心奪われる。大海おおうみ、本長篠、水窪みさくぼ大嵐おおぞれ、小和田、中井侍なかいさむらい、門島。天竜峡駅からまた乗り換えて、飯田まで。風変りな駅名、その由来に思いを馳せたり、トンネルの数を数えては色々考え事をしたり、要するに楽しい旅路である。天竜峡と飯田の間を列車で駆け抜けるのは、実に三十四年ぶりのことで、「こうも長く愛してやまない故郷の山河を見ることができなかったほど生活に労苦して、自分自身の時間を持つゆとりがなかったことをあわれまずにはいられなかった」。
 飯田で妻の家族に合流すると、飯田病院の霊安室にむかう。到着するや否や、秀雄の眼に入ってきたのは、もう忘れかけた、遠く懐かしい面々であった。いとこの富ちゃや和彦君とは、四十年ぶりの再会である。中学生だった彼等も、六十も間近の初老の域に入った。忽然として、秀雄の心には歓びが溢れて来る。「ともあれ、この二人が、生きづらいこの世の風霜をしのいでよく生き抜いてきて、元気でいる姿を目にし、私は心のなかでよろこび、感動した。こういうのも、わが身に引き比べてみても、この二人が決して恵まれた人生行路を歩んできたとは思われなかったからである。」八重子への義理にはじまったこの旅が、次第に変貌を遂げはじめる。「私はT叔父の死が、ゆくりなくもこのような感動をもたらしてくれたことに一つの救いを見いだした。」
 葬儀はお寺の都合もあって、四日を要することとなった。初日の夜、親族一堂に会しての食事である。その夜、一座の中心には秀雄の実弟、貞雄さだおがいた。長野県岡谷の高校教員を定年退職してから数年を経て、貞雄は、野菜作りと油絵の余生を生きていた。先の大戦では、中国大陸で戦った経験をもつ。戦後も、「中国へ何度も渡り、そこの風景画を描いてい」た男で、親族からは「画伯」と命名されていた。画伯がその夜語ったことといえば、「T叔父に対する批判、非難、愚痴」ただそれだけだった。アルコールがまわるにつれて、その非難も辛辣さを増していく。画伯は、「T叔父のために失う四日間の時間を、あたかもそれがT叔父に盗み取られでもしたかのように嘆いた。何よりも絵を描くための貴重な時間を奪われたことが腹立たしい」というのである。画伯の発言は、場に居合わせた秀雄他、ほとんどの親族の気持ちを率直に代弁していたようで、誰も反対したり、不謹慎だといったりするものもいない。死んでも、誰も忘れられないのだ。仙峡閣の運営に携わっていた親族たちの間には、それほどまでに、貞造から冷遇された者もいれば、返って来る望のない借金願いに、迷惑をこうむり続けた者もいたのである。「親族を代表しての率直で偽らざる弔辞」は、原の家風に叶う、すがすがしい弔い方であった。
 葬式行事のために、中島博という民生委員が秀雄のもとに訪れる。はじめは、形式ばった話をしていたようであるが、話が進むにつれ、目の前の中島氏は、小学校の同窓生直人くんの兄、「ひっちゃ」であると判明する。六十年もの時を経て、旧川路村と、仙峡閣から小学校に通った思い出が、秀雄の前に忽然、蘇る。これもまた、貞造の贈り物であろう。遺体の取り決めやら、死亡広告の習わしやら、煩瑣な手続きが終わるころ、ひっちゃは、死者への手向けとなる記憶を語った。ひっちゃが子供のころ、とある祝祭行事の日のことだ。旗行列をしていって、終点の仙峡閣の前で万歳三唱をしたら、貞造が気前よく、みなに饅頭を振る舞ってくれたという話。もう一つは、ひっちゃが大戦に際して、広召出征する時のこと。貞造は、ひっちゃを仙峡閣に招き、一夜の宴を設けたのだが、それが大変うれしかったという思い出話である。秀雄にとって、こうした叔父の振舞いは意外なものと映ったようだ。親族には見えていなかった、貞造という人間の、見知らぬ側面があったのだろうか。秀雄はここにきて、いぶかりはじめる。ここまで書いてきて、ぼくは思う。貞造には、ほとんどの人間には理解されることのない、高貴さがある、と。お金など、取るに足らない。そう思って人生を闊歩している人間を、ぼくは思い浮かべる。「お前の金とか、俺の金とか、そんなものは存在しない。金のいい使い方をお前は知らない。だからおれが使う。おれのためとか、誰のためとか、そんなものはない。もっと大きなもののために、金は使うものだと、俺が教えてやろう。」粗暴な寛大ジェネロシティさ、そう言いたいぼくは、身内に甘すぎるのか。
 四日間は流れるようにして過ぎた。読経を、和尚の「かーつッ」の大喝一声が締めくくる。最後に、親族一同の面前で、弔辞が読まれる。今村公民館長の弔辞である。秀雄は、はからずも、貞造に手向けた弔辞の全文を、エッセイに書き写したのだった。

 名勝天龍峡の発揚に、ご生涯情熱を注がれた原さんのご葬儀にあたり、郷土後進のひとりとし、謹んで弔辞を捧げます。
 原さんの仙峡閣が創業されたのは大正十三年(一九二四)のこと、私の生をうける以前の昔でありました。これに先立ち、大正十年に小亭が築かれ頃より、知名士が多く天龍峡に来遊されました。(中略)
 原さんが大切にされていた泊り客芳名帳等は、一時代の天龍峡文化史でもありました。原さんの芸術・文化への問いかけから心動かされ、滞在を通じてこの地の歴史と叙情を深める、多くの詩文・書画作品が誕生しました。昭和初年代の仙峡閣には、藤森成吉、香取秀真、近藤浩一路、三木清、石原純、高倉テル、人見絹枝、鈴木三重吉、安岡正篤、中条(宮本)百合子、トルストイの娘トルスタヤ、林広吉、そして吉屋信子と、多彩な著名人の宿泊があいつぎました。これらの事績も、多くご主人原さんの博学と天龍峡への愛情によるものでした。 
 戦後の晩年には、時代の流れとともに人心もうつろい、来遊客も変化し、有名宿仙峡閣も経営に苦労つのり、原さんの理想とされた美術館建設構想も、いつしか夢うつつの状況となり、お苦しみの日々であったと、お察し申し上げておりました。しかし天龍峡に美術館をの構想は、ロマンの人郷土史家の牧内武司翁も叫ばれ、私の父今村良夫もまた農民歌人として夢みていたものであります。本日ご同席の中島博先生も私もまた、阪谷朗蘆、日下部鳴鶴を筆頭に、文化性深められたこの地に、美術館・郷土資料館等の文化施設を待ちつづけているものであります。実り見られなかった原さんの夢も、いつの日か播かれた種に花咲く日が訪れるであろうと信じています。(中略)
平成元年二月二十七日 飯田市川路公民館長 今村真直 

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