その3 船橋の、藁積みの南面の日溜り
これは、大伯父秀雄が、二十一歳から二十二歳の頃、軍隊で送った生活の記録である。小型の便箋を二つに切って重ね、糸で綴じた手製の小さな手帳に、青のインキで縦書きしてある。約六十年の歳月を経て、身辺整理をしていた八十歳近くの秀雄のまえに、突如蘇った思い出の品。秀雄は、思わず拾って読み漁り、それを三十頁に渡って書き留めた。手帳の表紙をめくった初めの頁には、こう書かれている。
「獄舎の中の日長さは
一日千秋の気がするなり」
と平野の大人のたまわく
ぼくは、秀雄さんが書き留めたシンフォニックエッセイをよすがに、八十年も前を生きた青春の、残した足跡を辿ってみたい。
そしてまた、三つ子の魂百までという俗諺もあるように、人間の性格の本質は普遍であって、個々人が境遇や星霜によってその容貌、振舞いを変えても、その本質は変わることがないことの実証として、私はわが青春の自画像のなかに、老いた今の私の原型を随所に見出して深い興味を覚え、なおこの記録を留め置くことに価値を認めたからでもある。
約三十頁にわたる過去の日記を写し終えた、秀雄の感慨を、まず書き抜いた。ぼくとしては、この、三つ子の魂に触れてみたい。
以下、やま括弧は秀雄自身が書き加えた注である。日誌は、入隊した一九四三年九月二十日からはじまっている。
九月二十日
午前八時、川崎市富士見公園ニ参集。父上、貞雄、利雄ト袂別ス。夕刻、三中隊着。赤飯ノ夕食。軍服着用。
入隊前、秀雄は長野の伊那の尋常小学校で代用教員をしていた。三中隊とは、東部第四一〇〇部隊高射砲中隊のこと。秀雄の注には、入隊をきっかけとして約十三年ぶりに、父政雄に再会したと書かれている。貞雄は次男、利雄は三男。十三年の再会が、たった一行で終わってしまっているのは、どうしてなのだろうか。玉砕覚悟の入隊ではなさそうには見えるが、どのくらい死を意識していたのだろう。入隊当初は日々、身体検査、各種機器の説明等、お決まりの手続きが目立った、手身近な事実報告的がつづく。
二十九日
測高機班ニ編入サル。
三十日
測高機演習。俸給受領。
十月二十日
午前、演習。午後、銃剣術。夜、映画「潜水艦、西へ行ク」「花咲ク港」
十二月五日
午前、内田伍長殿ノ算定具教育。午後、最初ノ休務。利雄ヨリ「図解科学」送リ来ル。
検査、測定、教練、そうした文字が日々並ぶ単調な生活のなか、映画に目がひかれた。しかし、娯楽ものというよりも、軍国思想的なもののようだ。はじめて日誌に出てきた本の名前は、「図解科学」で、これも軍の中で有用な知識を習得する必要あってのことだろう。時々、「販売品、あんパン」の文字も繰り返されることから、日々の楽しみは、時折あがなうことができた、あんパンなのだった。単調でほとんど書くべきこともないような、川崎での生活は、一夜の命令で終わりを迎える。十二月の中旬のことであった。
十五日
衛兵一番トナル。服務中十三時頃、千葉防空学校分遣ノ為、川崎ノ部隊本部ヘ身体検査ニ行クコトトナル。夜、下命。
十六日
四時半起床、出発準備。伯母、貞雄、雨宮君ヘ便リヲ出ス。八時半、川崎本部発、一行四名。雨トナリ、寒サ加ハル。十一時半、稲毛着。防空学校ヘ行ク。身体検査合格。夜、習志野中隊ニ配属サル。駅ヨリ雨上リノ寒々トシタ習志野ヲ行クトキ淋シサ身ニ沁ム。
真っ暗な朝に、まず、何よりもさきに、家族や友人に急いで手紙をだす。今とちがい、手紙の返事は、必ず待たないといけない。雨のなか、寒さ加わる、淋しい習志野への旅。雨とあいまってか、淋しさが身に沁みるという。初めてといってよい、人らしい心の動きの記述。
習志野の、千葉高射学校習志野分屯所へ派遣されてからの、新たな生活はどのようなものだったのか。いくつか、抜萃しよう。
十八日
午前、作業、体操。白作業服デ附近ノ運動場ヘ行ク。気持ヨシ。
二十日
午前、執銃教練。午後、衛生学科。夜、対抗ビンタ。
二十一日
午前、午後、◯◯◯◯機演習。毎日ヨイ天気。「常在戦場」ヲ唱エテ消光ス。鬱々。
習志野の、青空の下、美しい白で駈足した瑞瑞しい心は、習志野中隊の雰囲気の中で、はやくに失われていったように見える。「対抗ビンタ」は、秀雄の注によると、陸軍でよく行われていたリンチであり、殊に、初年兵虐待の手段だった。被虐待者らを向かい合いの二列に並ばせ、止めの号令があるまで、対面の者のほおに平手打ちを加えさせ続けるといったもの。川崎とうってかわり、ここ、習志野では、このリンチは本式のひどいものだった。朝鮮軍から転属した屈強な兵士やら九州の炭坑夫あがりの荒くれ男が多くおり、秀雄自身、「野蛮な軍隊の空気を厭」わしく思っていたと書かれている。〇〇〇〇とは、電波探知機のこと。入隊まもなく、川崎時代にはあまり見られなかった「鬱々」とした心持ちが、巣喰いはじめていた。。
二十三日
我、万一ノ場合、遺品及ビ遺産(郵便貯金通帳ノ現在高二百五十余円)ハ総テ浪江伯母ノ処分ヲ仰グモノトス。
唐突に、遺品のことを考えている記録を見ても、秀雄が自分を見つめ直すような、厳しい環境に置かれ始めたように見える。「対抗ビンタ」や「上靴ビンタ」といった制裁がしばしば日記に顔を出し、「不寝番」などの、体力的にも厳しい軍務がつづく。冬の、凍える朝も、身にこたえる。ただ一点、川崎に比べて優れた面が、習志野の生活にもあった。それは、時として与えられる、外出許可である。元旦から三箇日の日誌が印象に残っている。
昭和十九年〈一九四四〉年元旦
三時、非常呼集。軍装ニテ集合。約ニ里駈足ス。途中、誉田神社ニテ拝礼。軍人勅諭奉読。七時半、会食。雑煮ヲ食ス。八時半、遙拝式。九時ヨリ東京ヘノ外出ヲ許サル。天曇リテ寒シ。
十一時半、東京着。帝大ノ利雄ノ所ヘ行ク。〈当時彼は医学部で雇われて働いていた〉小使室ノ戸、閉サレテ寂タリ。失望シテ帰ル。三日ニ船橋デ会オウト一書残シテ来レリ。閑寂タル落葉樹ノ大学道、彼ノ白衣ノ手術着姿ヲ偲ビツツ帰レリ。帰リニ船橋ニデ下車シテ逍遥ス。写真ヲ撮ル。「オゾ」〈ヒビ割れに塗る薬品〉ヲ買フ。昼食ニ、三円費ヤセリ。四時半頃帰営ス。本年ハ戦闘激烈ナラン。明日ハ我ガ誕生日ナリ。
一月二日(日)
快晴。我ガ満二十二年ノ誕生日、心持良シ。洗濯ヲス。又、便リヲ書ク。朝ハ雑煮ナリキ。林檎、菓子ノ配給アリ。
三日
七時五十分外出ス。九時頃船橋着。利雄ヲ待ツ。十時半ヲ過グルモ来ラズ。諦メタルトコロヘ来ル。時ニ十一時。市外ノ田園ノ方ヘ行キ、藁積ミノ南面ノ日溜リニテ語ル。餅、蜜柑、練乳、ウデ卵等アリ、二円ト一マスク」ヲ貰ヘリ。三時頃別ル。本日ハ愉快ナリキ。利雄、携帯ノ写真機ニテ撮影ス。夜、娯楽会。
なぜかわからないが、「朝の三時」という記述は、書き抜く前は読み飛ばしていて、これを書き写す作業をしていて、改めて印象に残った箇所。今まで縁のなかった時間帯に、はじめて想いを馳せる。一九四四の元旦、朝、三時。誉田も、一度通ったことがあり、印象に残った地名だったが、まさかここでつながるとは、思ってもみなかった。「小使室ノ戸、閉サレテ寂タリ。」「閑寂タル落葉樹ノ大学道、彼ノ白衣ノ手術着姿ヲ偲ビツツ帰レリ」には、言葉が力をもっているように思われる。こうした所に、漢文カタカナ体の醍醐味が詰まっているように感じる。
好きなのは、三日、船橋にて、弟が「諦メタルトコロヘ来ル。時ニ十一時。市外ノ田園ノ方ヘ行キ、藁積ミノ南面ノ日溜リニテ語ル」という箇所だ。「餅、蜜柑、練乳、ウデ卵」が、贅沢品の風格を帯びて顕れる。
九日(日)
朝、起床ト同時ニ白作業服ニテ集合、駈足ヲナス。八時、外出許可。船橋ニテ利雄ヲ待ツモ来ラズ。十時、父来ル。利雄ハ十二時半迄待ツモ遂ニ来ラズ。五目握リ飯、パン等ニテ昼食ヲ摂リツツ藁積ノ下ニテ語ル。三時ニ別ル。
〈当時、父は千葉県我孫子に住んでいた〉
三か月ほどまえに、十三年ぶりに会った実の父、政雄とも、船橋の市街の田園の、南面の日溜りにて、語り合う。何を話したかは書かれていない。
日常は、厳しい軍務が続く。「痛烈ナルビンタヲ喫ス」という記述が散見される。次男貞雄は、大学の試験勉強におわれ、手紙のやりとりの中で、弟を気づかう秀雄の様子もうかがえる。ただ、この一月の、船橋の日溜りの語らいを経て、秀雄の日誌は、少しずつ彩を持ち始めたように感じられてならない。心が、動きはじめた。
二十三日
(中略)日曜ノ夕方ナド時トシテ落莫タル寂シサヲ感ズ。利雄ナドニ会ッテ別レタ時モソウデアル。会者定離トイフコトガ有ルガ、楽シミノ後ニハ必ズ空虚ガ有ルモノダ。
「私ハコノ空虚ニ耐ヘラレナイ」
「汝ハ楽シミヲ欲スルヤ」
「然リ」
「然ラバ空虚ヲモ甘受シナケレバナラヌ」
今日ハ風ナク、雲ナク、本年ニ入リテ最モ暖カキ心持ヨキ日ナリキ。
自らのなかの、対話もはじまっている。心がのび、歓びが訪れたあとの、その、別れのあとの、空虚。その空虚を見つめはじめる。「今日ハ風ナク、雲ナク、本年ニ入リテ最モ暖カキ心持ヨキ日ナリキ。」
二十六日
虚空一碧ナレド風激シクシテ大イニ寒シ。コノ二、三日「通信学理」ノ勉強ヲ始ム。近来、読書欲猛然トシテ起ル。久シク忘レヰタルモノナリ。然レドモ我ニハソノ余裕ハ与ヘラレズ。
軍務に必要な学びでは飽き足らぬ何か、心のどこかに飢えたものがある。ただ、そこから呼びかけられている。その呼びかけに、耳を澄ませはじめた、心の動き。「読書欲猛然トシテ起ル」。
日誌は、日々の軍務の簡潔な報告のなかに、内省が混じりはじめる。
三十日
外出許可サル。雨天ニテ甚ダ天ヲ恨ム。九時、父来ル。利雄ヲ待ツ。ソノ間、写真屋ヘ写真ヲ取リニ行ク。焦点合ハズトテ撮リ直シヲセリ。停車場ニ来レバ利雄来リ居レリ。三人ニテ附近ノ旅宿ノ一室ヲ借リテ語ル。餅、卵アリ。大イニ食フ。面白カリキ。父ニハコノ上苦労サセタクナキモノナリ。老イタル顔ヲ見、ツクヅク感ゼリ。室料四円。コレハ不当ナリト思ヘリ。三時迄、四時間半語ル。餅六切、外套ノ下ニ入レテ帰レリ。利雄ヨリ「ノート」一冊、万葉集、「ガーゼ」(マスク用)ヲ貰フ。夜、娯楽会アリ。少シモ面白イトハ思ハズ。
幼少期より、家族離散の憂き目を見てきた秀雄は、その主たるきっかけをつくったであろう父にたいして、労わりの眼を持ち続けている。どこから、この父子のむすびつきが生まれるのか、いまだにわからない。今まで、意味をもっていた軍の「娯楽会」は、その魅力を失いはじめる。その心に、万葉集がはいってくる。以下、秀雄が詠んだ歌。
二月一日
詠寒風
鷲が棲む 筑波の山の
麓なる 習志野原は
風吹けば 見渡すきはみ
枯草の 乱れ生ふなる
濃緑の 松簇生ふる
寒き野の その野の果ての
白雲の 向か伏すきはみ
土けぶり 騰り立ち立つ
心憂き 寒き処ぞ
鷲が棲む 筑波の下の
習志野原は
詠於習志野原
冬籠春さり来らし朝な聞く
鳥が音繁りなりけるかも
冬籠り春さり来らし天伝ふ
日長くなりぬ風はあれども
日日なべて冬は去るらしあづさ弓
春とし聞けば吾は楽しも
鷲が棲む筑波の下の習志野に
故郷をぞ偲ぶ寒くしあれば
二月四日
朝ヨリ雨。暖キ雨ナリ。今日ハ節分ナリトカ。心ノブル感アリ。午前、内務実施。午後、分業。夜、炒豆少々アリ。貞雄ヨリ便リアリ。二十八日上京トカ。
六日
千葉市ヘ外出ス。「通信学理」ソノ他購入ス。昼食、一円。飯ハ、ソバ混食ニテ茶飲茶碗ニ一杯程ナリ。世モ大分変ッタト思フ。映画「虎彦、龍彦」ヲ見ル。二十二銭。外出ヨリノ帰途、又シテモ落莫タル寂シサヲ感ズ。何故ナリヤ?貞雄、父上、伯母上ニ便リヲ出ス。
この、「落莫タル寂シサ」から、自らの生を見つめ直すこと。どこから来るとも知れぬ寂しさは、生きた心のしるしでもあるのではないか。
忙しさがつのり、外出もできない週が続くと、記述は、食事のことばかり。
十一日
(略)連日、食欲旺盛ナリ。一度、腹一杯食ヒテ見タキモノナリ。又、汁粉デモ丼一杯食ヒテ見タキモノナリ。
十三日
(略)昨日、蓬ノ芽生エヲ見ツケタリ。故郷デモ餅草トイフモノナリ。草餅ヲ食ッテ見タクナル。我々ハ唯、食フ事ト寝ル事ノミガ楽シミナリ。
懐かしみ(来春ぬと)
摘みし蓬の匂いかな
五時入浴ス。明ルイ内ニ入浴シタ事ハ入隊以来初メテナリ。
多忙な軍務の中に見える、いくつかの内省的な記述。
二十五日
(略)過去ノ我、自己ノ「アンビシャン」〈野望〉ノ為ニ、肉親ニ対シテ情薄キ感アリキ。事成リテ後、報イントハ我ガ心ナリキ。ソハ考フベキ所無シトセズ。我ハ「フィリアルピアティ」〈孝行〉ヲ伯母、祖父、父等ニ対シテ尽サザルベカラズ。自己ノ「ゴローリ」〈栄誉〉果タシテ何ゾ。コノ頃、考フル所多シ。
二十七日
(略)食フト寝ル事ガ唯一ノ楽シミデアルト云フ事ハ、生活ガ極メテ単調デアル事ヲ意味スル。
外出ができず、家族と語ることができぬ日々は、「習志野汁」をはじめとして、食事の記述ばかりが目立ちはじめる。しかし、そうした生活の単調さを自覚し、外から眺める視点をもっている。薄っぺらい己の欲望も、ふと湧き上がった批評精神によって見つけられる。気が附けばもう、季節は春先、三月にさしかかっていた。
三月四日
曇リ。ナマ暖カシ。午前、分業。昼食ハ習志野汁。
「戦争ハ人類滅亡ノ日マデ在ラウ」
軍隊ニ入ッタラ、非常ニ現実的トナッタ。又、人生観モ急変シタ・芥川龍之介ノ或ル思想ニ絶対反対デアッタ時分ガ、軍隊ニ入ッタラ、ソレニ共鳴スルヤウニナッタ。此ノ点デ、経験ニヨラズ、アノ思想ヲ持チ得タ彼ハ慥カニ天才デアルト思フ。芥川ノ書物ガツクヅク読ミタクナッタ。芥川ハ決シテ不幸デハナカッタト思フ。(以下略)
六日
(略)泰阜ニヰタ時、音楽ヲシッカリ勉強シテオクノダッタト思フ。自分ハ重点主義ダッタカラ、アル一点ニ主力ヲ集中スルトキ、他ノモノハ精神的タルト物質的タルトヲ問ハズ殆ド犠牲ニシテヰタ。故ニ趣味ナドヲ有シテヰナカッタ。熟中スルソノ物ニ趣味ヲ感ズル事ハアルガ、ソレハ趣味トハ云ヘナイ。思フニ、趣味ハ余裕ガアルカラ持ツノデハナク、余裕ヲ作ッテ持ツベキデアル。趣味ハ決シテ贅沢品デハナキ。又、主目的ニ悪影響スルモノデモナイ。否、主目的ニ好影響ヲ与フベキモノデアラネバナラヌ。
外出もままならず、食うことと寝ることの他、休みなく過酷な軍隊生活の中で、はぐくまれた言葉。芥川を読みたい、音楽を、趣味というものを持たねばならない。趣味という言葉が適切かどうかはわからないが、小説や音楽を心から望む様子は、秀雄自身が、軍隊生活と日誌をつける生活を通じて、心の内なる砂漠を、はっきりと自覚したということを意味していると思う。
十一日
(略)何カ勉強シタイト思フ。ガ、マトマッタ事ハ何一ツ、六ヶ月ニ垂トスルニシテヰナイ。又、スル暇モ無カッタヤウデアル。第一、兵隊トシテ学ブベキ事デスラ、マダ完全トハ決シテ思ヘナイ。兵隊ハ何モシテハイケナイトハ思ヘナイ。少ナクトモ兵隊ニ娯楽ガ与ヘラレテヰル限リ。
十二日
(略)〝コムリッド〟ニ人間ラシキモノ、一、ニヲ除ケバ無シ。コノ点淋シキモノナリ。
十四日
(略)「日記ヲ書クコトハ、自分ニトッテ唯一ノ、日々ノ生活ニ於ケル意義アル事デアルヤウニ思ハレル。
ぼくは、兵隊という環境が強いて来るものに打ち勝って、自らの心の動きに耳を傾け続けた秀雄を誇りに想う。また、毎日欠かさずに書いた日誌の持つ力についても、眼のまえで見たように思った。
日誌は一九四四年三月十九日をもって終わっている。戦局悪化に伴う非常事態にあって、書き続ける余裕を失い、そのうちに日記自体を紛失してしまったのだ。空襲を通じて九死に一生を得る体験を経て、秀雄は戦争を生き抜いたのだった。終戦したのは、秀雄二十三歳の夏のことであった。